できごと

フロート法

Float glass
AD1959年
重要度 4
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概要

平らな板硝子を作るのは難しい。鋳造した板を研いで磨くと、材料の三割が削り屑になる。1952年、アラステア・ピルキントンが、溶けた錫の上に硝子を流す方法を思いつく。比重が違うので硝子は浮き、重力と表面張力だけで両面が平らになる。実用になるまで七年と、当時の金で七百万ポンドを失った。1959年に発表され、いまも世界の板硝子のほぼすべてがこの方法で作られている。窓、車、鏡、画面。透明な平面が安くなったことが、二十世紀後半の建物の見た目を決めた。

場所

セント・ヘレンズ
53.45°N -2.74°E · イギリス・マージーサイド州

本文

窓に使う平らなガラスを、平らなまま安く作る。二十世紀の半ばまで、これは両立しない注文だった。透明な板そのものは古くからあり、ヴェネツィアのムラーノの硝子職人も、十七世紀フランスの板ガラスと窓も、それぞれのやり方で板を作ってきた。だが、どの方法にも弱みがあった。

いちばん古いのは、ガラスを円筒に吹き、縦に切り開いて、熱いうちに平らに延ばす方法である。どうしても歪みが残り、大きさにも限りがある。次に、溶けたガラスを鉄の台に流し、ローラーで延ばして板にする鋳込みの方法が生まれた。大きく、厚みも揃う。しかし表面は荒れているので、冷ましてから両面を研いで磨かなければならない。研磨には何日もかかり、巨大で高価な機械が要り、材料の二割から三割が削り屑になった。二十世紀には、溶けたガラスから帯を垂直に引き上げる方法も広まった。こちらは安いが、表面にわずかな波が残る。古い家の窓越しに景色が少し揺れて見えるのは、たいていこの方法のガラスである。磨けば直るが、磨けば高くなる。平らさと安さのどちらかを捨てるしかなかった。

ドイツのイェーナにある古い窓。左上端がフロートガラス。木の映りの不鮮明さから、他のガラスはフロートガラスではないと思われる。
ドイツのイェーナにある古い窓。左上端がフロートガラス。木の映りの不鮮明さから、他のガラスはフロートガラスではないと思われる。Wikimedia Commons Alexander Fluegel ( talk ) · Public domain

この問題を解いたのは、イングランド北西部セント・ヘレンズのガラス会社ピルキントン社の技術者、アラステア・ピルキントンである。1920年生まれで、第二次大戦では従軍し、捕虜生活も経験した。戦後ケンブリッジで機械工学を学び、1947年に入社した。社名と同じ姓だが、創業家とは血のつながりがなかった。

着想は1952年、三十二歳のときとされる。本人が後に語ったところでは、皿洗いの水に浮いた油の膜が平らなのを見て思いついたという。ただ本人も、すべてがその一瞬から出たわけではないと述べている。溶けた金属の上でガラスを平らにするという発想そのものは以前からあり、アメリカでは1902年に似た構想の特許が出ていたが、実用にはなっていなかった。ピルキントンの仕事は、その思いつきを工場で毎日動く装置にしたことにある。

フロート法による板ガラスの照明器具。厚い板ガラスは鉄分の影響で緑がかって見える
フロート法による板ガラスの照明器具。厚い板ガラスは鉄分の影響で緑がかって見えるWikimedia Commons Alexander Flügel · Public domain

原理は単純である。溶けた錫を浅い槽に満たし、その上に溶けたガラスを連続して流し込む。錫は二百三十度ほどで溶けるのに、沸点は二千六百度を超える。だからガラスが溶けている千度前後でも、液体のまま蒸発しない。しかもガラスよりずっと重いので、ガラスは錫の上に浮く。下の面は完全に平らな金属の液面に触れ、上の面は表面張力で平らになる。そのまま少しずつ温度を下げながら送り出し、固まったところで切る。研磨の工程が丸ごと要らなくなる。

難しいのは、理屈を量産の現場に移すことだった。錫は酸素に触れると酸化し、酸化物がガラスの表面に斑点として付く。そのため槽の上を窒素と水素の混合気体で満たし、外の空気が入らないよう密閉しなければならなかった。厚さの問題もあった。溶けたガラスを錫の上に放っておくと、重さと表面張力が釣り合って厚さ六、七ミリほどに落ち着く。それより薄い板を作るには両端をつかんで横へ引き広げ、厚い板を作るには流れをせき止める。この加減を安定させるのに長い時間がかかった。しかも一度火を入れた槽は止められない。止めれば錫が固まり、炉そのものが傷む。

試験の装置は1953年に動き出し、1955年には工場規模の試験ラインが建てられた。だが厚さは揃わず、表面には傷と斑点が出た。売り物にならないガラスが何年も作り続けられ、捨てたガラスは十万トンを超えたとされる。費やした額は当時の金で七百万ポンドほどに達し、会社の年間利益に迫る規模だった。それでも会長のハリー・ピルキントンをはじめとする経営陣は資金を出し続けた。1958年、ようやく売れる品質の板ができ、1959年1月、会社はこの方法を公表した。着想から七年が経っていた。

結果は劇的だった。研磨がいらなくなったぶん費用が下がり、歩留まりが上がった。品質も、磨いた板と比べて遜色がなく、むしろ平らだった。ピルキントン社はこの技術を自社で囲い込まず、世界のガラス会社に実施を許した。一社では世界の需要を満たせず、許諾料は大きな収入になり、囲い込めば他社が回り道の技術を開発するからである。各国の主要な会社が次々に契約し、日本でも1960年代に旭硝子(いまのAGC)と日本板硝子がこの方式を導入した。半世紀後の2006年、その日本板硝子がピルキントン社を買収している。技術を教わった側が、教えた会社を買ったことになる。

いま、世界の板ガラスのほぼすべてがこの方法で作られている。一本のラインは幅三、四メートル、長さ数百メートルに及び、昼夜休まず動く。一度火を入れると十年以上止めないのがふつうで、止めるのは大改修のときだけである。建設には巨額の費用がかかり、新しく参入するのは難しい産業になった。

アラステア・ピルキントンは1970年にナイトの称号を受け、1973年から1980年まで会社の会長を務めた。会社員としての発明だったため、特許は会社のもので、彼個人が巨富を得たわけではない。1995年、七十五歳で死去した。

窓、車の風防、鏡、そして手のひらの画面。透明で歪みのない平面が安く手に入るようになったことは、二十世紀後半の都市の見た目を変えた。壁一面がガラスで覆われた高層ビルは、この方法なしには、あれほどの数は建たなかった。ヴィクトリア朝の硝子の温室が贅沢の象徴だったころから百年あまりで、ガラスの壁はありふれたものになった。

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