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Person / 人

ウサーマ・ビン・ラーディン

Osama bin Laden
AD1957年3月10日 – AD2011年5月2日(享年54)
アル・カーイダ重要度 4

概要

サウジアラビアの建設業の富豪の子。50人以上の兄弟の一人。1980年代、アフガニスタンでソ連と戦う義勇兵に金と組織を提供した。1988年、アル・カーイダ(基地、名簿)。1990年、湾岸戦争でアメリカ軍がサウジに駐留したことを、聖地への冒涜として憎んだ。スーダン、そしてアフガニスタンのタリバンの下へ。1998年の大使館爆破、2000年のコール号、2001年の9・11。2011年5月2日、パキスタンのアボッタバードの家で、米海軍特殊部隊に撃たれた。遺体は海に沈められた。

関わったできごと(1)

9・11同時多発テロAD2001年9月11日 · 計画した

本文

1957年3月10日、リヤド。父ムハンマド・ビン・ラーディンは、イエメンのハドラマウトから来た移民で、サウジ王家の建設事業を一手に引き受けて富豪になった。妻は10人以上、子は50人以上。ウサーマは17番目の息子。母はシリア人で、父の10番目の妻。父は彼が10歳のとき、飛行機事故で死んだ。

ジェッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学。経済と経営(土木工学、という説もある)。ムスリム同胞団の思想に触れた(教師にムハンマド・クトゥブ——サイイド・クトゥブの弟——がいた)。

1979年12月、ソ連のアフガニスタン侵攻。彼はパキスタンへ行き、アラブ人の義勇兵(アラブ・アフガン)に、金と、渡航の手配と、宿舎を提供した。パレスチナ人のアブドゥッラー・アッザームと組んで、1984年、ペシャワールに「奉仕事務所(マクタブ・アル・ヒダマート)」。父の会社の重機を持ち込んで、道と洞窟を作った。1986〜87年、ジャジ(ジャージー)で自ら戦闘に加わった。CIAとサウジの資金は、主にパキスタンの情報部を通じてアフガン人の勢力に流れた(ビン・ラーディンが直接CIAの支援を受けたという証拠はない、というのが多くの研究者の結論)。

1988年8月、「アル・カーイダ(基地、あるいは名簿)」。義勇兵の記録を残し、次の戦いに備えるための組織として。

1989年、ソ連撤退。1990年8月、イラクがクウェートに侵攻した。彼はサウジ王家に「私のアラブ・アフガンでイラクを追い出す」と申し出て、断られた。王家はアメリカ軍を招いた。50万人の非ムスリムの軍が、メッカとメディナのある国に駐留した。彼はそれを、生涯の憎悪の核にした。

1991年、サウジを出た。スーダン(1992〜96年。道路建設と農園を経営しながら、組織を作った)。1994年、サウジ国籍を剥奪された。1996年、スーダンが圧力で追い出し、アフガニスタンへ。タリバンの下で。

1996年8月、「二つの聖地を占領するアメリカ人への宣戦布告」。1998年2月、「ユダヤ人と十字軍に対するジハードのための世界イスラーム戦線」。「アメリカ人とその同盟者を殺すことは、それができる全てのムスリムの、個人の義務である」。

1998年8月7日、ナイロビとダルエスサラームのアメリカ大使館。224人が死んだ(大半はケニア人)。アメリカが巡航ミサイルで報復した。2000年10月、アデンで駆逐艦コール号。17人。

2001年9月11日。

10月、アメリカがアフガニスタンを攻撃した。12月、トラボラの洞窟から逃れた。以後10年、映像と音声を出し続けた。

2011年5月2日未明、パキスタンのアボッタバード(陸軍士官学校から1キロ)の、高い塀の家。米海軍特殊部隊(SEALチーム6)のヘリ2機。40分。彼は3階で撃たれた。54歳。遺体はアラビア海に沈められた(墓が巡礼地になることを避けるため、とアメリカは説明した)。

彼が始めたものは、彼の死で終わらなかった。イラクの支部から、2014年、「イスラム国」が出た。