ドゥオモン要塞の爆発
概要
1916年、ヴェルダン近くのドゥオモン要塞でドイツ軍の弾薬が爆発し、逃げ出した兵が味方に撃たれるなどして679人が死んだ。
場所
49.22°N 5.44°E · フランス・ムーズ県
本文
1916年5月8日、フランス北東部ヴェルダンの近くにあるドゥオモン要塞で、中にいたドイツ軍の弾薬が爆発し、火が地下の通路を走った。この爆発と火災、そして逃げ出した兵が味方に撃たれたことで、ドイツ兵679人が死んだ。兵士が火炎放射器の燃料でコーヒーを温めようとしたのが火元だという話が伝わっている。
ドゥオモン要塞は、ヴェルダンの町を守るために1885年から築かれた要塞群のなかで、最も大きく、最も高い所にあった。長さ400メートルほどで、地下2階の通路と兵舎を、砂の層の上に載せた厚さ12メートルの鉄筋コンクリートの屋根が守っていた。だが第一次世界大戦が始まると、ドイツ軍の巨大な榴弾砲がベルギーの要塞を次々に打ち砕いた。フランス軍の上層部はヴェルダンの要塞も役に立たないと考え、1915年には大砲の多くを取り外し、守りの兵もほとんど引き揚げてしまった。

1916年2月21日、ドイツ軍はヴェルダンへの大攻勢を始めた。4日後の2月25日、ドイツ軍の工兵の一団がドゥオモン要塞の堀に入り込むと、守る者はいなかった。中にいたのは整備の兵など60人足らずで、大半は砲撃を避けて地下にこもっていた。工兵の軍曹クンツェがほとんど1人で中に入り、砲台の兵を捕らえて閉じ込めた。要塞は1発も撃ち合わないまま落ちた。陥落の報告を上に送ったのは最後に入ってきた将校で、彼は「ドゥオモンの英雄」としてドイツ最高の勲章を受けた。実際に中へ踏み込んだクンツェたちの働きが認められたのは、1930年代になって歴史家が経緯を調べ直してからである。ヴェルダンの守りの要を失ったことはフランスにとって大きな痛手で、取り返すための戦いで多くの命が失われることになる。
ドイツ軍にとって、要塞は前線のすぐ後ろにある頑丈な隠れ家になった。兵の休む場所であり、救護所であり、弾薬や物資の置き場でもあった。ドイツ兵は親しみを込めて「ドゥオモンおじさん」と呼んだという。フランス軍の砲撃が続くなか、狭い地下の通路には兵と手榴弾、火炎放射器の燃料、砲弾がひしめいていた。
5月8日、その地下で火が出た。見張りの無いまま置かれた炊事の火が手榴弾と火炎放射器の燃料に燃え移り、それが積まれていた弾薬に引火したとされる。兵がコーヒーを沸かすのに燃えやすい火炎放射器の燃料を使い、その火がすぐそばに不用心に置かれていた砲弾に移ったという話も伝わっている。炎は通路を一気に走り、第12擲弾兵連隊の本部の将校たちを含む数百人が即死した。
悲劇はそれで終わらなかった。煙と煤で顔の黒くなった兵たちが外へ逃げ出すと、外のドイツ兵は彼らをフランスの植民地兵と見誤って撃った。死者は合わせて679人にのぼり、負傷した兵も多かった。遺体は要塞の中の一室に集められ、入口は壁でふさがれた。この場所はいまもドイツの公式な戦没者墓地で、壁の前にはドイツ語の銘板と十字架が立ち、訪れる人が見ることができる。要塞そのものも公開されていて、砲弾の跡の残る屋根の上や、湿った地下の通路を歩くことができる。すぐ近くには、ヴェルダンの戦場で見つかった身元の分からない兵の骨を納めたドゥオモン納骨堂が建ち、独仏双方の死者を悼む場所になっている。
要塞はその後もドイツ軍の手にあり、5月下旬のフランス軍の奪回の試みも、多くの死傷者を出して失敗した。フランス軍が取り戻したのは10月24日である。巨大な列車砲が何日も要塞を撃ち、ドイツ軍が持ちこたえられずに退こうとしていたところへ、精鋭のモロッコ植民地歩兵連隊などが攻め込んだ。ヴェルダンの戦いは12月まで10か月にわたって続き、双方で数十万の死傷者を出した。同じ年のソンムの戦いと並んで、この大戦の消耗戦を象徴する戦いとされる。敵の砲弾ではなく、味方の不注意と見誤りが数百人の命を奪ったドゥオモンの惨事は、その戦場の過酷さを今に伝えている。