ウィリアム1世
概要
ノルマンディー公としてイングランドを征服した。以後この島の言葉と支配層が塗り替わる。
関わったできごと(2)
ヘイスティングズの戦いAD1066年10月14日 · ノルマン側 · 総指揮ドゥームズデイ・ブックAD1086年 · 命じた本文
1028年頃、北フランスのノルマンディー公国の町ファレーズで生まれた。父はノルマンディー公ロベール1世。母エルレヴァは公の正式な妻ではなく、町の皮なめし職人の娘だったと伝えられる。ノルマンディーは、10世紀の初めにヴァイキングの首領がフランス王から土地を与えられて興した国で(ノルマンディー公国の成立)、その子孫たちはフランス語を話し、キリスト教徒となって、フランス王の臣下として領地を治めていた。

1035年、父はエルサレムへの巡礼に旅立ち、その帰り道に亡くなった。旅立つ前に、ただ一人の息子を跡継ぎに指名していた。7、8歳の庶子の公である。周りの貴族たちは、庶子の子どもを主君と認めず、領内は私闘と陰謀で荒れた。少年の後見人たちは次々に殺された。後見人の一人は、少年の寝室で、眠っているその目の前で喉をかき切られたという。のちに「庶子ウィリアム」と呼ばれたのは、こうした生まれのためである。
成長したウィリアムは、主君であるフランス王の助けを借り、1047年、反乱を起こした貴族たちを戦場で打ち破って、ようやく公国を自分の手に収めた。戦い方は容赦がなかった。ある町を囲んだとき、城壁の上の守備兵たちが、皮なめしの孫だとあざけって獣の皮を叩いてみせた。ウィリアムは町を落とすと、捕らえた者たちの手足を切り落とさせたと、同時代の記録は伝えている。

海の向こうのイングランドでは、1042年からエドワード証聖王が国を治めていた。エドワードは若い頃に長くノルマンディーに亡命しており、子が無かった。ウィリアムは、エドワードから王位を譲ると約束されたと主張した。さらにノルマン側の記録によれば、イングランド随一の有力者ハロルドが、1064年頃ノルマンディーを訪れたとき、ウィリアムの王位継承を助けると聖遺物に手を置いて誓ったという。この場面は、のちに作られた長い刺繍の絵巻、バイユーのタペストリーにも描かれている。ただし、これらはみな征服した側の言い分である。
1066年1月、エドワードが亡くなると、ハロルドがすぐに王として戴冠した。ウィリアムは誓いを破ったとして兵を集め、ローマ教皇から旗を贈られて、海を渡る準備を進めた。同じ頃、ノルウェー王ハーラルも王位を求めてイングランド北部に攻め込んだ。ハロルドは北へ急ぎ、9月25日、スタムフォード・ブリッジの戦いでノルウェー軍を壊滅させた。その3日後、ウィリアムは南の海岸に上陸した。船から降りたとき足を滑らせて転んだが、両手でイングランドの土をつかんだのだと言って周囲の不安を笑いに変えた、という話が伝わる。

ハロルドは疲れた軍を率いて南へ取って返した。10月14日、ヘイスティングズの近くの丘で両軍はぶつかった(ヘイスティングズの戦い)。盾を並べて丘の上に陣取るイングランド軍に、ノルマンの騎兵は何度も跳ね返された。ウィリアムが討たれたという噂が流れて味方が崩れかけたとき、彼は兜を脱いで顔を見せ、兵を立て直したという。戦いは夕方まで続き、ハロルドは戦死した。その年のクリスマスの日、ウィリアムはウェストミンスターでイングランド王として戴冠した。
だが、本当の征服はそこから始まった。各地でイングランド人の反乱が続き、ウィリアムは国中に城を築かせた。最初は土を盛った丘と木の柵の簡素な城で、やがて石造りに変わった。ロンドン塔の中心にある白い塔は、彼が建てはじめたものである。1069年から翌年にかけて、北部で反乱が起き、デンマークの軍まで加わると、ウィリアムは北部一帯の村々を焼き払い、家畜を殺し、種もみまで奪わせた。「北部の荒廃」と呼ばれる。のちの年代記作者は、10万人が飢えて死んだと書いた。数字はともかく、20年後の記録でも、北部には「荒れ地」と記された土地が広く残っている。

土地も人も入れ替えられた。反乱に加わった者、戦死した者の土地は取り上げられ、ノルマンディーから従ってきた騎士や貴族、教会に分け与えられた。20年ほどの間に、王から直接に土地を受ける大領主のほとんどがノルマン人になり、イングランド人の領主は数えるほどしか残らなかった。司教や修道院長もノルマン人に替えられた。宮廷と貴族の言葉はフランス語になり、記録の言葉はラテン語になった。英語は農民の言葉として残り、何百年もかけてフランス語の語彙を大量に取り込んでいく。生きた牛や豚を表す英語の言葉と、食卓に上る肉を表すフランス語由来の言葉が違うのは、育てる者と食べる者の言葉が違ったからだ、とよく説明される。
1085年のクリスマス、ウィリアムは国中の土地を調べるよう命じた。調査官たちは州から州へと回り、村ごとに、誰が土地を持っているか、耕地の広さ、農民の数、鋤を引く牛の数、水車の数、そしてその土地からいくらの収入が上がるかを書き上げた(ドゥームズデイ・ブック)。年代記は、牛一頭、豚一匹も記録から漏れなかったと、恨みを込めて書いている。まるで最後の審判の日の帳簿のように、言い逃れのできない記録だとして、のちにドゥームズデイ・ブックと呼ばれるようになった。

1087年、ウィリアムはフランス王と争ってマントの町を焼いた。その際、馬がつまずいて鞍の前の部分で腹を強く打ち、それが元で重い病に倒れたと伝えられる。9月9日、ルーアンで亡くなった。59歳前後だった。死んだとたん、側近たちは自分の領地を守るために散り散りに去り、召使いたちは遺体のそばの品を持ち去った。カーンの修道院での葬儀では、墓所の土地は父から奪われたものだと叫ぶ男が現れ、その場で代金を払って収めた。太った遺体は石棺に収まりきらず、押し込もうとして裂け、ひどい臭いが満ちたと、修道士の年代記は書いている。
ノルマンディーは長男ロベールに、イングランドは次男ウィリアムに分けられた。こうしてイングランドの王は、同時にフランス王の臣下としてフランスの領地も持つことになり、この絡み合いが、その後数百年にわたる英仏の争いの種になった。1066年は、イングランドが外国の軍に征服された最後の年として、いまもこの国の歴史の分かれ目とされている。