人物

ルッジェーロ2世

Roger II of Sicily
AD1095年12月22日 – AD1154年2月26日(享年58)
シチリア王国重要度 4

概要

ノルマンのオートヴィル家。ルッジェーロ1世の子。パレルモで育ち、アラビア語を話した。南イタリアとシチリアを一つの王国に。教皇と戦い、認めさせた。アフリカの海岸を取った。ギリシア人の提督、アラブ人の学者、ラテン人の司教。パラティーナ礼拝堂の天井はアラブの職人。

関わったできごと(1)

ルッジェーロ2世のシチリア王国AD1130年12月25日 · 王

本文

ルッジェーロ2世は、1095年12月22日、南イタリアのカラブリアのミレートで生まれた。父のルッジェーロ1世は、北フランスのノルマンディーから南イタリアに渡ってきた騎士の一族、オートヴィル家の出で、兄ロベルト・グイスカルドとともに南イタリアを手に入れ、30年かけてシチリア島をイスラーム勢力から奪った人である(ノルマンのパレルモ征服)。ルッジェーロ2世が生まれたとき、父は60代の半ば、母アデライデは北イタリアの貴族の出で、まだ20代だった。

Roger II Sicily
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1101年に父が死に、跡を継いだ兄シモーネも1105年に死んだ。9歳のルッジェーロがシチリア伯となり、母が摂政として国を治めた。宮廷はパレルモに置かれた。パレルモは、ノルマンの征服以前、200年以上にわたってイスラームの支配のもとで栄えたアラブの大都市だった。ルッジェーロはギリシア人とアラブ人の役人や家庭教師に囲まれて育ち、ギリシア語とアラビア語を解したとされる。

1113年、母はエルサレム王ボードゥアン1世と再婚した。ボードゥアンに子がなければルッジェーロがエルサレムの王位を継ぐという約束だったが、ボードゥアンは母の持参金を使い果たしたあと結婚を無効にし、母を送り返した。この屈辱から、ルッジェーロは生涯、十字軍国家に冷淡だったといわれる。

1127年、本家にあたるアプーリア公が子を残さずに死ぬと、ルッジェーロは南イタリアの本土の領地も継ぐと宣言し、反対する諸侯を抑えた。1130年、教皇の座をめぐる分裂の中で、一方の教皇アナクレトゥス2世から王の位を認められ、その年のクリスマスにパレルモで戴冠した。シチリアと南イタリアを一つにした王国の誕生である(ルッジェーロ2世のシチリア王国)。

ルッジェーロ2世のシチリア王国に関わる図版:Bandiera del Regno di Sicilia 4
ルッジェーロ2世のシチリア王国Wikimedia Commons Bandiera_del_Regno_di_Sicilia.svg : Oren neu dag Arms_of_the_Aragonese_Kings_of_Sicily.svg : Heralder derivative work: L · Public domain

その後の9年間、ルッジェーロは、反乱する南イタリアの諸侯、もう一方の教皇インノケンティウス2世、そして教皇を支える神聖ローマ皇帝ロタール3世と戦い続けた。1139年、ミニャーノで教皇インノケンティウス2世の軍を破り、教皇その人を捕らえた。教皇は彼を王として認めるほかなかった。

1140年、ルッジェーロはアリアーノで法令を発し、王国の法を定めた。ローマ法やビザンツの法を取り入れ、王の権威を諸侯の上に置くものだった。同じ年に新しい金貨と銀貨を造らせている。王国の役所では、ラテン語、ギリシア語、アラビア語の三つの言葉で文書が作られた。海軍を率いたのはアンティオキア生まれのギリシア人提督ゲオルギオス、財務を扱う役所はアラブ式の仕組みを受け継ぎ、教会はラテンの司教が治めた。

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1147年、ヨーロッパの諸侯が第2回十字軍に向かうなか、ルッジェーロは十字軍に加わらず、ビザンツ帝国のギリシアを艦隊で襲った。コリントスやテーバイを略奪し、絹織物の職人たちをパレルモに連れ帰って、王国の絹織物業を興した。同じ頃、北アフリカの海岸に兵を送り、トリポリやマフディーヤなど、いまのリビアからチュニジアにかけての港町を次々に支配下に置いた。

ルッジェーロは学問を好んだ。北アフリカ出身の地理学者アル=イドリースィーを宮廷に招き、各地の商人や旅人から聞き取った情報をもとに、世界の地誌と大きな銀の世界図を作らせた。その書は『ルッジェーロの書』と呼ばれ、王の死の直前、1154年の初めに完成した。地図は当時のアラブの流儀で南を上にして描かれていた。

ルッジェーロ2世のために作られた世界地図『タブラ・ロジェリアーナ』(アル=イドリースィー画、1154年、上下が逆に描かれる)
ルッジェーロ2世のために作られた世界地図『タブラ・ロジェリアーナ』(アル=イドリースィー画、1154年、上下が逆に描かれる)Wikimedia Commons Konrad Miller (copy and transliteration) · Public domain

パレルモのマルトラーナ教会には、キリストがルッジェーロに冠を授けるモザイクが残る。王はビザンツ皇帝の装束をまとい、そばにはラテン語の「王ルッジェーロ」をギリシア文字で書いた銘がある。宮殿の礼拝堂の天井は、イスラームの職人による鍾乳石のような装飾で覆われ、そこにはアラビア語の文字も描かれている。後の時代の教会の歴史家は、彼を半ば異教徒のような王と評した。

1154年2月26日、ルッジェーロはパレルモで死んだ。58歳だった。自分の墓所として建てたチェファルーの大聖堂ではなく、パレルモの大聖堂の斑岩の棺に眠っている。王国は息子のグリエルモ1世が継いだ。娘のコスタンツァは神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と結婚し、その子、つまりルッジェーロの孫が、のちの皇帝フリードリヒ2世である。シチリアで育ち、アラビア語を解したこの皇帝は、祖父の宮廷の気風を受け継いだ。

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