源義経
概要
義朝の九男。母は常盤。鞍馬で育ち、奥州の藤原秀衡のもとへ。兄の挙兵に駆けつけ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦で平家を滅ぼした。兄に疎まれ、後白河から官位を受けたことで追われ、吉野、平泉。衣川で妻子と自害した。31歳。「判官びいき」。牛若丸。
関わったできごと(3)
一ノ谷の戦いAD1184年(寿永3年)2月 · 崖を下った壇ノ浦の戦いAD1185年4月25日 · 勝った屋島の戦いAD1185年(元暦2年)2月 · 嵐の中を渡った本文
源義経は1159年、源義朝の九男として生まれた。母は常盤御前。幼名は牛若。生まれたその年の暮れ、父義朝は平治の乱(保元・平治の乱)で平清盛に敗れ、逃げる途中で殺された。常盤は今若、乙若、牛若の三人の幼子を連れて逃れたが、やがて清盛のもとに出頭した。子らは殺されず、寺に入れられることを条件に助けられたと伝えられる。

牛若は京の北の鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗った。天狗に剣術を習ったという話や、京の五条の橋で弁慶と出会って従えた、という話は、室町時代の『義経記』や後世の物語によるものである。確かなのは、彼が十代半ばで鞍馬を出て、奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せたことで、金を商う商人の金売吉次に伴われて下ったと伝えられる。秀衡は、源氏の御曹司を手厚く迎えた。
1180年、伊豆に流されていた兄源頼朝が平家打倒の兵を挙げた。10月、富士川の戦いの後、駿河の黄瀬川の陣に、平泉からわずかな手勢を連れて駆けつけた若者がいた。義経である。会ったことのない兄弟は、涙を流して対面したと『吾妻鏡』は伝える。
1184年1月、義経は兄の範頼とともに、京を占領していた木曽義仲を宇治川で破り、義仲を討った。続いて2月、摂津の福原に陣取る平家を攻めた(一ノ谷の戦い)。義経が少数の騎兵を率いて背後の険しい崖を駆け下り、平家の陣を奇襲したという「鵯越の逆落とし」はよく知られているが、その場所や、本当に義経が率いたのかについては、研究者の間で議論がある。いずれにせよ、平家は海へ逃れた。

京に戻った義経は、京の治安を守る役目を任された。この年の8月、後白河法皇から検非違使・左衛門少尉の官を受けた。判官と呼ばれるのはこのためである。だが兄の頼朝は、御家人が自分の推薦なしに朝廷から官位を受けることを固く禁じていた。武士を朝廷から切り離し、自分のもとにまとめることが、頼朝の新しい政権の土台だったからである。頼朝は怒り、義経を平家追討の任から外した。
だが範頼の平家攻めが行き詰まると、義経は再び起用された。1185年2月、嵐の中をわずか数艘で四国に渡り、陸から屋島の平家の陣を急襲した(屋島の戦い)。那須与一が扇の的を射た話は、このときのものとして『平家物語』に語られている。3月24日、関門海峡の壇ノ浦の戦いで平家は滅んだ。平家の総大将格の知盛は、見るべきほどのことは見つ、と言って海に身を投げたと伝えられる。8歳の安徳天皇は祖母の二位尼に抱かれて入水し、三種の神器の一つである剣も海に沈んだ。義経が敵の船から船へと飛び移ったという「八艘飛び」も、この戦いの話である。

勝利は義経を英雄にしたが、兄との溝は深まった。戦の進め方をめぐって対立した梶原景時は、義経が自分勝手にふるまっていると頼朝に報告した。5月、平家の捕虜を連れて鎌倉に向かった義経は、鎌倉に入ることを許されず、手前の腰越で足止めされた。このとき兄に宛てて身の潔白を訴えたのが「腰越状」で、『吾妻鏡』に収められているが、後世に作られたものではないかとも言われる。
10月、頼朝は刺客の土佐坊昌俊を京に送って義経を襲わせた。義経はこれを退け、後白河法皇に迫って、頼朝を追討せよという命令を出させた。だが義経に従う武士はほとんどいなかった。西国へ逃れようと摂津の大物浦から船出したが、嵐に遭って船は難破し、一行は散り散りになった。頼朝は逆に法皇に義経追討の命令を出させ、義経を捕らえるという名目で、全国に守護・地頭を置く権利を手に入れた。

義経は吉野の山に逃れ、そこで愛妾の静と別れた。静は捕らえられて鎌倉に送られた。1186年4月、頼朝の求めで鶴岡八幡宮で舞を舞った静は、吉野山の峰の白雪を踏み分けて入っていった人の跡が恋しい、と義経を慕う歌を歌い、頼朝を怒らせた。妻の北条政子が、自分も流人だった頼朝を慕って夜の雨の中を走ったのだと静をかばった、と『吾妻鏡』は伝える。静が産んだ男の子は、由比ヶ浜で殺された。
義経は山伏の姿に身をやつして北陸を通り、1187年、再び平泉の秀衡のもとに逃れた。加賀の安宅の関で、弁慶が主人を見破られないよう義経を杖で打ったという話は、のちの能『安宅』や歌舞伎『勧進帳』で名場面となったが、史実としての裏付けはない。秀衡は義経をかくまったが、その年のうちに病死した。跡を継いだ泰衡は、頼朝の圧力に耐えきれず、1189年閏4月30日、衣川の館を攻めた。義経は妻と4歳の娘を手にかけ、自害した。31歳。弁慶が無数の矢を受けて立ったまま死んだという「立往生」も、後世の物語である。

義経の首は酒に浸されて鎌倉へ送られ、腰越で和田義盛と梶原景時が首実検をした。頼朝はその年のうちに大軍を送って、奥州藤原氏を滅ぼした。
兄に追われて死んだ悲劇の英雄に、人々は同情を寄せた。弱い立場の者に味方したくなる気持ちを「判官びいき」と呼ぶのはここから来ている。義経は実は衣川で死なず、北へ逃れて蝦夷地に渡った、という伝説が江戸時代に広まり、明治以降には大陸に渡ってチンギス・ハンになったという説まで唱えられたが、いずれも根拠はない。『義経記』、能、浄瑠璃『義経千本桜』、歌舞伎、そして子どもの絵本の牛若丸まで、義経ほど多く物語に描かれた武将は少ない。史料に残る義経は、戦の天才であると同時に、兄の作ろうとした新しい武士の秩序を理解できなかった人でもあった。