ザンジバルの丁子と奴隷市場
概要
オマーンのスルタンが本国からここへ都を移した。丁子の農園と東アフリカ最大の奴隷市場が同じ島にあり、内陸から運ばれた人がそこで売られた。
場所
-6.17°N 39.20°E · タンザニア
本文
ザンジバルは、東アフリカの海岸から40キロほど沖に浮かぶ島である。アラビア半島やインドとの間を季節風に乗って船が行き来するスワヒリ海岸の交易都市の一角にあり、古くから交易で知られていた。17世紀の末、アラビア半島東端のオマーンがポルトガル人をこの海岸から追い出し、島はオマーンの支配下に入った。
19世紀の前半、オマーンを治めたのがサイイド・サイード(在位1806〜1856年)である。彼は東アフリカの領地に目を向け、たびたびザンジバルに滞在するようになり、1840年ごろには宮廷を本国のマスカットから移した。何年を遷都とするかには幅があり、1832年とする見方もある。乾いた本国より、この島のほうが豊かで、交易の利益も大きかった。

サイードの死後、息子たちの間で跡目争いが起こり、イギリスの仲裁でオマーンとザンジバルは別々のスルタンが治める国に分かれた。ザンジバルのスルタンは、海岸の港町から内陸の交易路までを勢力圏とし、島はアフリカ東岸の商業の中心として栄えた。インドの商人たちが金融を握り、アメリカやヨーロッパの国々もここに領事館を置いた。
サイードは、丁子(クローブ)の栽培を広めた。丁子はもともと東南アジアのモルッカ諸島の香料で、19世紀の初めにフランス領の島々を経てザンジバルに持ち込まれたとされる。サイードは農園の主に丁子を植えさせ、隣のペンバ島とあわせて、ザンジバルは19世紀の半ばには世界の丁子の大半を生み出すまでになった。
その農園で働いたのは、内陸から連れてこられた奴隷だった。ザンジバルの町には東アフリカ最大の奴隷市場があり、売られた人々は島の農園で働かされるほか、アラビア半島やペルシア湾岸へ送られた。年に数万人が島を通ったともいわれるが、確かな数は分かっていない。人を集めたのは、象牙を求めて内陸の大湖地方やコンゴの奥まで入り込んだ隊商である。なかでもティップー・ティップと呼ばれた交易商は、いまのコンゴ東部に事実上の自分の領地を築き、19世紀後半の内陸交易を牛耳った。
イギリスは、自国で奴隷制を廃止した後(イギリスの奴隷制廃止法)、インド洋の奴隷交易にも圧力をかけた。1822年と1845年の条約で、オマーンの領地の外へ奴隷を運び出すことは禁じられたが、ザンジバルの中での売買は続いた。転機になったのは、探検家デイヴィッド・リヴィングストンの報告である。1871年、コンゴ東部のニャングウェで、奴隷商人の一団が市場に集まった人々を撃ち殺すのを目の当たりにした彼の記録は、イギリスの世論を動かした(スタンリー、リヴィングストンに会う)。1873年6月、イギリスの艦隊に港を封鎖すると迫られたスルタン、バルガシュは、海路の奴隷交易を禁じ、ザンジバルの奴隷市場を閉じる条約に署名した。この年、リヴィングストンは内陸で亡くなっている。

市場の跡には、英国国教会の大聖堂が建てられた。工事は1873年に始まり、祭壇は鞭打ちの柱があった場所に置かれたと伝えられる。大聖堂のそばには、いまも地下の狭い奴隷の収容所とされる部屋が残され、記念の像とともに公開されている。
市場が閉じても、奴隷制そのものはすぐには終わらなかった。陸路の交易は続き、島の農園で働く人々の身分が法的に解かれたのは1897年、イギリスの保護領になった後のことである。その後も、かつての奴隷の多くは土地を持てず、農園で収穫期だけ働く労働者や小作として丁子の生産を支えた。アラブ系の農園主と、アフリカ系の住民との間の溝は、1964年の革命でアラブ系の支配層が倒されるまで、島の政治に影を落とし続けた。島はその年、対岸のタンガニーカと合わさってタンザニアの一部になった。

石造りの家並みが続くザンジバルの旧市街ストーン・タウンは、2000年に世界遺産に登録された。丁子は今も島の名産で、観光客は農園を巡り、市場跡の大聖堂を訪ねる。香料の島の豊かさと、その豊かさを支えた人々の苦しみが、同じ町に並んで残っている。