ヘンリー8世
概要
離婚のために教皇と切れ、自分を教会の首長にした。六度結婚し、二人の妻を処刑した。修道院を解散させ、その土地で貴族を養う。
関わったできごと(2)
国王至上法AD1534年 · 国王トマス・モアの処刑AD1535年7月6日 · 王本文
1491年6月28日、ロンドン近郊のグリニッジで生まれた。父ヘンリー7世は、ばら戦争と呼ばれる長い内乱をボズワースの戦いの勝利で終わらせ、テューダー朝を開いた王である。ヘンリーは次男で、王位を継ぐのは兄のアーサーのはずだった。

1502年、その兄が15歳で急死する。アーサーはスペインの王女キャサリン・オブ・アラゴンと結婚したばかりだった。スペインとの同盟を保ちたい父王は、未亡人となったキャサリンを、今度は弟のヘンリーと婚約させた。兄の妻と結婚するには、教皇の特別な許可が要り、それは取りつけられた。1509年、父の死で17歳のヘンリーが即位し、すぐに5歳あまり年上のキャサリンと結婚した。
若い王は人気があった。背が高く、馬上槍試合と狩りを好み、ラテン語やフランス語を操り、楽器を弾いて作曲もした。1521年、ドイツでマルティン・ルターが教会を批判すると、ヘンリーはルターに反論する本を書き、教皇から「信仰の擁護者」の称号を贈られている。このとき、のちにローマと決別することになるとは誰も思わなかった。

キャサリンとの結婚は20年近く続いた。何度も身ごもったが、死産や流産が続き、生まれた男の子も生後2か月足らずで亡くなった。育ったのは娘のメアリーだけだった。父の代に内乱を終えたばかりのイングランドで、男の跡継ぎがいなければ、また王位をめぐる争いが起きかねない。ヘンリーはやがて、兄の妻をめとったことが神の怒りに触れたのだ、と考えるようになる。旧約聖書には、兄弟の妻をめとる者には子ができない、という一節があった。同じ頃、王は宮廷の女官アン・ブーリンに心を奪われていた。
1527年頃から、ヘンリーは教皇に、キャサリンとの結婚を初めから無効だったと認めるよう求めた。だが教皇クレメンス7世は応じなかった。同じ年、ローマは神聖ローマ皇帝カール5世の軍に略奪され、教皇は皇帝の手の内にあった。そしてカール5世は、キャサリンの甥だった。交渉に失敗した大法官ウルジー枢機卿は失脚した。

ヘンリーは、教皇の許しを待つことをやめた。新たに重用したトマス・クロムウェルのもとで、議会がイングランドの教会を少しずつローマから切り離す法を作っていった。1533年、王はひそかにアンと結婚し、新しくカンタベリー大司教に任じたクランマーが、キャサリンとの結婚を無効と宣言した。同じ年、アンは娘エリザベスを産んだ。1534年、議会は国王至上法で、国王をイングランドの教会の唯一の最高の首長と定めた(国王至上法)。ローマとの決別である。これに従う誓いを拒んだ前大法官のトマス・モアは、反逆罪で首を斬られた(トマス・モアの処刑)。
もっとも、教えの中身はほとんど変わらなかった。ヘンリーは最後まで、ミサや独身の聖職者といったカトリックの教義を守らせ、ルター派の考えを広めた者も処罰した。英語の聖書を教会に置くことは認めたが、変えたのは、教会の頂点に誰が立つかだった。

1536年から数年のうちに、国じゅうの修道院が解散させられた。800を超える修道院の土地と財産が王のものになり、その多くは貴族やジェントリ(地主層)に売られたり与えられたりした。修道院の土地を手にした人々は、ローマとの決別を元に戻すことに利害を持たなくなった。北部では修道院の解散などに反対する大規模な反乱が起きたが、鎮圧され、指導者たちは処刑された。
結婚は六度に及んだ。男子を産めなかったアン・ブーリンは、1536年、不義の罪で斬首された。罪状はでっち上げだったと考えられている。その11日後に結婚したジェーン・シーモアは、待望の男子エドワードを産み、産後まもなく亡くなった。ドイツの公女アン・オブ・クレーヴズとは、肖像画を見て結婚を決めたが、会ってみて気に入らず、半年で結婚を無効にした。縁組をまとめたクロムウェルは、その直後に処刑されている。5人目の若いキャサリン・ハワードは、不貞を理由に処刑された。最後の妻キャサリン・パーだけが、王より長く生きた。

晩年のヘンリーは、若い頃の姿とは別人だった。1536年の馬上槍試合で落馬して重傷を負い、その頃から脚の潰瘍に苦しみ、ひどく太って、ついには自力で歩けなくなった。気性はますます激しく、疑い深くなった。フランスやスコットランドとの戦争に巨額を費やし、修道院から得た富も使い果たした。1547年1月28日、55歳で亡くなった。
王位は9歳のエドワード6世が継いだ。その治世でイングランドの教会はプロテスタントへ大きく傾き、次のメアリー1世はカトリックに戻そうとした。最後にアン・ブーリンの娘、エリザベス1世が王位に就き、イングランド国教会の形を定めた。ヘンリーがあれほど男子を求めたのに、テューダー朝で最も長く国を治め、名君と呼ばれたのは娘だった。