人物

アレクサンドリアのキュリロス

Cyril of Alexandria
AD376年頃 – AD444年(享年68・推定)
ローマ帝国重要度 3

概要

叔父の跡を継いでアレクサンドリアの総主教になり、ユダヤ人を追放し、ヒュパティアが殺された年の街を治めていた。ネストリウスを、相手が着く前に会議を開いて断罪した。教会博士だが、その手口は同時代から批判された。

所属

ローマ帝国

関わったできごと(1)

エフェソス公会議AD431年 · 断罪した側

本文

アレクサンドリアのキュリロスは、5世紀前半のアレクサンドリアの総主教である。キリストとはどういう存在かをめぐる論争で勝ち、その神学はカトリックでも正教会でも正統の柱になった。カトリック教会は彼を教会博士に数えている。同時に、町の暴力と宮廷工作で目的を遂げた人として、同時代から厳しく批判されてもきた。偉大な神学者と、手段を選ばない教会政治家。キュリロスはその両方である。

アレクサンドリアの女性哲学者・天文学者・数学者ヒュパティア(ラファエロ『アテネの学堂』、署名の間、ローマ、1509年-1510年 の一部)。アストロラーベ(天体観測儀)の発明者でもある。キュリロス派に殺害された。
アレクサンドリアの女性哲学者・天文学者・数学者ヒュパティア(ラファエロ『アテネの学堂』、署名の間、ローマ、1509年-1510年 の一部)。アストロラーベ(天体観測儀)の発明者でもある。キュリロス派に殺害された。Wikimedia Commons Raphael · Public domain

376年ごろ、エジプトに生まれた。叔父のテオフィロスはアレクサンドリアの総主教で、キュリロスはその庇護のもとで教育を受けた。アレクサンドリアは、アレクサンドロス大王の建設以来の大都市で(アレクサンドリア建設)、ギリシアの学問とキリスト教とユダヤ教が同居し、しばしば衝突する町だった。叔父テオフィロスはこの町の異教の大神殿セラペイオンの破壊を後押しした人で、403年にはコンスタンティノープルの総主教ヨアンネス・クリュソストモスを失脚させる「樫の木の会議」を開いた。若いキュリロスはそれに同行している。教会の権力争いを、彼は叔父のそばで学んだ。

412年に叔父が死ぬと、後継をめぐって町は二つに割れ、軍が出動する騒ぎの末にキュリロスが総主教に選ばれた。就任するとすぐ、異なる教派のノヴァティアヌス派の教会を閉じ、その財産を取り上げた。教会史家ソクラテスによれば、414年ごろにはユダヤ人の一部が夜にキリスト教徒を襲う事件が起き、キュリロスは群衆を率いてシナゴーグを奪い、ユダヤ人を町から追い出した。アレクサンドリアには何百年も前から大きなユダヤ人の共同体があったが、このとき大きな打撃を受けた。

フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』
フィリップ・ド・シャンパーニュ画『聖アウグスティヌス』Wikimedia Commons Philippe de Champaigne · Public domain

この措置に、皇帝の代理としてエジプトを治める長官オレステスが反発した。両者の対立が深まるなか、キュリロスの側の修道士たちがオレステスを取り囲み、その一人が投げた石が長官の頭に当たった。オレステスはその修道士を捕らえて拷問で死なせ、キュリロスは彼を殉教者として祀ろうとしたが、さすがに受け入れられず取りやめた。

415年3月、オレステスの相談相手として知られていた哲学者のヒュパティアが、町なかで群衆に襲われた。彼女は馬車から引きずり下ろされて教会に連れ込まれ、殺されて遺体を焼かれた(ヒュパティアの死)。ソクラテスは、キリスト教徒の一団がペトロという教会の朗読者に率いられていたと書き、この事件はキュリロスとアレクサンドリアの教会に少なからぬ恥をもたらしたと記している。キュリロスが殺害を命じたことを示す史料は無い。しかし、彼が総主教として率いていた町で、彼に近い人々が起こした事件であることは確かで、責任をどこまで問えるかは古代から議論が続いている。翌年、皇帝は総主教の配下で病人の世話などをしていたパラバラニと呼ばれる人々の人数を制限する法を出した。彼らがこうした騒ぎの力になっていたとみられたためである。

トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)
トマス・アクィナスの聖像画(アルベルトゥス・マグヌスの弟子)Wikimedia Commons Carlo Crivelli · Public domain

キュリロスの名を教会史に刻んだのは、428年にコンスタンティノープルの総主教になったネストリウスとの論争だった。ネストリウスが、マリアを「神の母(テオトコス)」と呼ぶのは正しくなく「キリストの母」と呼ぶべきだと説くと、キュリロスはこれを、キリストを神と人の二人に分ける考えだと批判した。キュリロスにとって、神の言葉そのものが人となって生まれ、苦しみ、死んだのであり、だからこそマリアは神の母なのだった。彼は書簡を送り、ローマ教皇ケレスティヌスと皇帝の宮廷、とくに皇帝の姉プルケリアに働きかけ、ネストリウスが受け入れるはずのない12か条の破門宣告を突きつけた。教会政治の上では、新しい都コンスタンティノープルの総主教を、古い大都市アレクサンドリアの総主教が抑え込む争いでもあった。

431年、皇帝テオドシウス2世は小アジアのエフェソスで公会議を開いた(エフェソス公会議)。キュリロスは、ネストリウスを支持するアンティオキアの総主教ヨアンネスの一行の到着が遅れているうちに会議を開き、その日のうちにネストリウスを罷免した。数日後に着いたヨアンネスたちは別に集まり、逆にキュリロスを罷免した。皇帝は一時、両方の決定を認めてキュリロスもネストリウスも拘束したが、最後はキュリロスの側に傾いた。その裏で、キュリロスの側が宮廷の高官や女官、宦官に大量の金品を贈っていたことは、その品目を記した文書が残っていて分かる。教会はそれを「祝福の贈り物」と呼んでいた。

ドゥンス・スコトゥスの肖像画
ドゥンス・スコトゥスの肖像画Wikimedia Commons Justus van Gent / Pedro Berruguete · Public domain

433年、キュリロスはアンティオキアのヨアンネスと「合同の信条」を結んで和解した。キリストは完全な神であり完全な人であって、二つの本性が混じり合わずに一つになっているという内容で、双方が少しずつ歩み寄った。論争のさなかの強硬さに比べると、現実的な決着だった。

キュリロスは444年6月に死んだ。彼の死を喜び、地獄の者たちが追い返さないよう墓に重い石を置けと書いた手紙が、論敵テオドレトスの名で伝わっているが、後世の作り物とする見方が強い。それほど敵の多い人だったということではある。

ハギア・ソフィアのキリスト・パントクラトルのモザイク
ハギア・ソフィアのキリスト・パントクラトルのモザイクWikimedia Commons Dianelos Georgoudis · Public domain

彼の死後、キュリロスの神学の受け継ぎ方をめぐって、教会はかえって割れた。451年のカルケドン公会議は、キュリロスの書簡を正統の基準として掲げながら、キリストは「二つの本性において」知られると定めた。キュリロスが好んだ「受肉した神の言葉の一つの本性」という言い方を守る人々は、これを彼への裏切りとみなして会議を拒んだ。エジプトのコプト正教会やシリアの正教会は、自分たちこそキュリロスの正しい後継者だと考えている。勝者として死んだキュリロスは、のちに互いを異端と呼び合う人々の、どちらからも父と仰がれることになった。

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