クロンターフの戦い

概要
アイルランド上王ブライアン・ボルが、ダブリンのヴァイキングとレンスターの連合を破った。73歳の王は天幕で祈っているところを逃げてきたヴァイキングに殺された。勝った側の王が死に、アイルランドは統一されないまま残った。
場所
53.35°N -6.26°E · アイルランド
関わった人(1)
ブライアン・ボルAD941年頃–AD1014年4月23日 · 戦死した上王本文
10世紀のアイルランドは、一つの国ではなかった。島には大小100を超える王国があり、その上に、マンスター、レンスター、アルスター、コナハトといった地方の王が立ち、さらにその上に、名目上全島の王たちを従える上王(アルド・リー)がいた。上王の位は長いあいだ、北のウイ・ネイルの一族が独占していた。そこへ9世紀からヴァイキングが来襲し、やがて海辺に住みついてダブリンやリムリック、ウォーターフォードといった町を築いた(ダブリンの建設)。これらの町は交易で栄え、アイルランドの王たちは、ときにヴァイキングと戦い、ときに手を結んで、互いに争っていた。
ブライアン・ボルは、そうした争いの中から現れた。生まれは940年ごろ、マンスターの小さな一族ダール・カシュの出である。兄のマホンとともにリムリックのヴァイキングと戦い、兄がマンスターの王位に就いた。976年に兄が殺されると、ブライアンがその後を継ぎ、敵を討ってマンスターを固めた。999年にはレンスターとダブリンの連合軍を打ち破り、ダブリンの王シトリック(絹髭王)を従わせた。

1002年、上王マール・シェフネルは、ついにブライアンに上王の座を譲った。ウイ・ネイルの一族以外の者が上王になったのは、記録に残る限り初めてのことだった。1005年、ブライアンはアイルランドの教会の中心地アーマーを訪れて金を捧げ、そのとき書記に、聖パトリックゆかりの写本『アーマーの書』へ、自分を「アイルランド人の皇帝」と記させた。アイルランドに教えをもたらした聖人(パトリキウスのアイルランド布教)の権威と自分を結びつけ、島全体の支配者であることを示そうとしたのである。
しかし、その支配は固くはなかった。レンスターの王マール・モルダは、もともとブライアンに従うことに不満を抱いていた。マール・モルダの妹ゴルムフラスは、かつてブライアンの妃で、ダブリン王シトリックの母でもあった。1013年、レンスターとダブリンは手を結んでブライアンに背いた。シトリックは海の向こうに助けを求め、オークニー伯シグルズやマン島のヴァイキングの首領ブロージルらが船団を率いて駆けつけた。のちのアイスランドの『ニャールのサガ』は、離縁されたゴルムフラスが彼らにブライアンを討つよう焚きつけたと語るが、これは物語としての色合いが強い。

1014年4月23日、キリスト教の聖金曜日に、両軍はダブリンの北の海辺、クロンターフでぶつかった。ブライアンはすでに70歳を超えていたとされ、自らは戦わず、陣の後ろの天幕で祈っていたと伝えられる。軍の指揮をとったのは息子のムルハドだった。戦いは朝から夕方まで続く激しいものになった。ヴァイキングとレンスターの側は崩れ、海辺の船へ逃げようとしたが、満ちてきた潮に阻まれ、多くが溺れたという。シグルズも、マール・モルダも討たれた。ダブリン王シトリック自身は戦いに出ず、町の城壁から戦況を見ていたと伝えられる。
勝ったのはブライアンの側だった。だが、その代償は大きかった。指揮官のムルハドも、その若い息子も戦死した。そして戦場から逃げ出したブロージルの一団が森を抜けるうちに上王の天幕に行き当たり、祈っていたブライアンを斧で斬り殺したと伝えられる。ブロージルはその場で捕らえられて殺された。勝利の日に、王とその跡継ぎが、ともに命を落としたのである。
ブライアンの軍は故郷へ戻る途中で、別の地方の勢力にも襲われた。上王の位は、もとのマール・シェフネルの手に戻った。ブライアンの一族はその後もマンスターで力を保ち、のちのオブライエン家の祖となったが、島全体をまとめる力を持つ王は、再び現れなかった。アイルランドは小王国が争う状態のまま12世紀を迎え、1169年にはイングランドからノルマン人の騎士たちが上陸してくる。
19世紀、アイルランドの民族主義が高まると、クロンターフの戦いは、ブライアン・ボルが外敵のヴァイキングをアイルランドから追い払った日として語られるようになった。しかし実際には、これはアイルランドの王どうしの権力争いであり、両方の側にアイルランド人とヴァイキングがいた。ヴァイキングがアイルランドから去ったわけでもない。ダブリンはその後も北欧の血を引く王の町であり続け、シトリックは1036年まで王位にあった。ちょうど同じ1014年には、イングランドを征服したばかりのデンマーク王スヴェンが死んでいる。北海を囲む世界ではなお、北欧の人々の動きが続いていた(クヌートの北海帝国)。
それでも、ブライアン・ボルは、アイルランドを一つにまとめかけた王として記憶され続けた。ダブリンのトリニティ・カレッジには「ブライアン・ボルのハープ」と呼ばれる古いハープがあり、アイルランドの国章やギネスビールの商標のもとになっている。実際にはブライアンより数百年後の14〜15世紀ごろに作られたものだが、その名で呼ばれ、親しまれている。歴史の事実と、人々が求めた物語とが、一本のハープの中で重なっている。