スヴェンのイングランド征服
概要
デンマーク王が、1002年に妹を殺されたことと、毎年のデーンゲルドの味を覚えて、全軍で来た。ノーサンブリアとダーンローがすぐ降り、ロンドンが最後に降った。エセルレッドはノルマンディーへ。5週間で死んだ。息子クヌートが仕事を継いだ。
場所
53.40°N -0.78°E · イギリス・リンカンシャー
関わった人(1)
スヴェン1世(双叉髭王)?–AD1014年2月3日 · 王本文
スヴェン1世(双叉髭王)は、デンマークの王ハーラル青歯王の子として、960年ごろに生まれた。二つに分かれたあごひげから「双叉髭」と呼ばれる。980年代の半ば、彼は父に背いて兵を挙げ、父は傷を負って逃れた先で死んだ。こうして王位を手にしたスヴェンは、北の海を越えた豊かな国に目を向けた。イングランドである。
9世紀にヴァイキングが大挙して押し寄せて以来、イングランドの東と北には、デーン人が住みつき、デーン人の法と習わしで暮らす地域が広がっていた(ダーンローの成立)。アルフレッド大王とその子孫は、10世紀のうちにこの地域を取り戻し、イングランドを一つの王国にまとめた。だが10世紀の末、王エセルレッド2世の時代になると、北欧からの襲撃が再び激しくなった。991年、エセックスのマルドンの戦いでイングランドの軍が敗れると、王は襲撃者に銀を払って引き揚げてもらう道を選んだ。デーンゲルド、すなわちデーン人への貢ぎ金の始まりである。

994年、スヴェンはノルウェーのオーラフ・トリグヴァソンと組んでロンドンを攻めた。町は落ちなかったが、エセルレッドは1万6千ポンドの銀を払って彼らを去らせた。払えば去る。だが払えば、また来る。貢ぎ金の額は襲撃のたびにふくらみ、1002年には2万4千ポンドに達した。
1002年11月13日、聖ブライスの祝日に、エセルレッドは、イングランドに住むデーン人を殺すよう命じた。王は、デーン人が自分を殺して国を奪おうとしていると聞いたのだという。どれほどの人が殺されたのかは分からないが、オックスフォードでは、教会に逃げ込んだデーン人ごと教会が焼かれたことが、王自身の出した文書に書かれている。のちの時代の歴史家は、殺された人々の中にスヴェンの妹グンヒルドがいたと書いているが、確かなことは分からない。いずれにせよ、翌年からスヴェンは自ら軍を率いてイングランドを襲い、町を焼くようになった。

その後の10年、イングランドは襲撃と貢ぎ金のくり返しに疲れ果てた。1007年には3万6千ポンド、1012年には4万8千ポンドが払われた。1011年にはカンタベリーが落ち、大司教エルフヘアが捕らえられた。大司教は、貧しい領民に重い負担をかけることを嫌って、自分の身代金を払わせなかった。1012年4月、酒に酔った襲撃者たちは、宴の骨を投げつけて大司教を殺した。このとき襲撃の軍を率いていたトルケル高身は、その後、45隻の船とともにエセルレッドに仕えることになった。
1013年の夏、スヴェンは、息子のクヌートを連れ、全軍を率いて海を渡った。今度の目的は、貢ぎ金ではなかった。艦隊は南東の港サンドウィッチに着いたあと、すぐに北へ向かい、ハンバー川をさかのぼってトレント川に入り、ゲインズバラに陣を構えた。ここは、かつてデーン人が住みついた土地の真ん中である。ノーサンブリアの伯ウートレッドがまず従い、リンジーの人々、イングランドの中部の五つの町の人々が次々に従った。デーン人の血を引く人々の多い地方は、ほとんど戦わずにスヴェンを主君と認めた。

スヴェンは、人質と船をクヌートに預けると、南へ兵を進めた。デーン人の土地の境を越えると、軍は容赦なく略奪した。オックスフォードとウィンチェスターは降伏した。ロンドンでは、エセルレッドとトルケルが守りを固め、スヴェンの攻撃を退けた。スヴェンは西へ回り、バースで、イングランドの西部の貴族たちの服従を受けた。孤立したロンドンも、やがて降伏し、人質を差し出した。
エセルレッドは、トルケルの艦隊に身を寄せたあと、ワイト島に渡り、年が明けると、海の向こうのノルマンディーへ逃れた。妃エマはノルマンディーの公の妹で、子どもたちとともに先に兄のもとへ送られていた(ノルマンディー公国の成立)。1013年の暮れ、イングランドの年代記は、全土の民がスヴェンを王と認めたと書いている。デンマークの王が、初めてイングランドの王になったのである。

だが、その治世はあまりに短かった。1014年2月3日、スヴェンはゲインズバラで急に亡くなった。イングランドの王となってから、わずか5週間ほどだった。死の原因は分からない。のちに修道士たちは、スヴェンがイースト・アングリアの殉教した王、聖エドマンドの修道院の土地に税をかけようとしたため、夜に現れた聖エドマンドに槍で刺されて死んだ、という話を書き残した。聖エドマンドは、9世紀にデーン人に殺された王である。遺体はのちにデンマークへ運ばれ、ロスキレに葬られたと伝えられる。
艦隊の兵たちはクヌートを王に推したが、イングランドの貴族たちはノルマンディーのエセルレッドに使いを送り、以前より良く治めるなら王として迎えると伝えた。エセルレッドは戻り、まだ若いクヌートはいったん引き揚げた。その途中、サンドウィッチで、父が取った人質たちの手や耳や鼻を切り落として浜に置き去りにしたと、年代記は記している。

クヌートは翌1015年に再び大軍で戻ってきた。1016年、エセルレッドが亡くなり、その子エドマンド剛勇王が粘り強く戦ったが、10月のアサンダンの戦いで敗れ、国を分け合う約束をした直後に亡くなった。クヌートはイングランドの全土の王となり、やがてデンマークとノルウェーも合わせて、北海をはさむ大きな王国を築いた(クヌートの北海帝国)。父スヴェンの5週間は、その先触れだったのである。
イングランドが払った貢ぎ金は、年代記の数字を合わせるだけでも、1018年までに20万ポンドを超える。北欧の各地、とくにスウェーデンのバルト海の島々からは、この時代のイングランドの銀貨がいまも何万枚も見つかっている。20世紀のはじめ、イギリスの作家キプリングは、一度デーンゲルドを払えば、デーン人を追い払うことはできない、と詠んだ。脅しに金で応えることの危うさを言う喩えとして、この言葉はいまも引かれている。