できごと

宇治川の戦い

Battle of Uji (1184)
AD1184年3月4日
重要度 2
古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民クマン=キプチャク連合モンゴル系の人びとフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民金(女真)チベット宋西夏スコータイ朝クメール帝国ヒンドゥーと仏教の小国群南詔南詔と大理パガン朝日本プラティーハーラ朝高麗アイヌSenas大越大越ピュー(驃)の諸都市モンの諸国チャンパAD1184年3月4日宇治
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概要

源頼朝が送った範頼・義経の軍が宇治と瀬田で木曾義仲の軍を破った戦い。義仲は粟津で討たれた。

場所

宇治
34.88°N 135.80°E · 京都府

関わった人(2)

源義経AD1159年–AD1189年6月15日(文治5年閏4月30日) · 搦手の軍を率いて宇治川を渡る源頼朝AD1147年–AD1199年 · 鎌倉から弟たちに義仲追討を命じる

本文

宇治川の戦いは、寿永3年1月20日(1184年3月4日)、源頼朝が送った軍と、京を押さえていた源義仲(木曾義仲)の軍とが戦った合戦である。源氏同士の戦いで、源義経が京へ攻め入って義仲を追い、義仲は近江の粟津で討たれた。平家を倒す戦いの途中で、源氏のうち誰が主導権を握るかが決まった戦いである。なお、宇治では治承4年(1180年)にも以仁王の挙兵の際に戦いがあり、こちらも宇治川の戦いと呼ばれる。

義仲は頼朝・義経の従兄弟にあたり、信濃の木曾で育った。治承4年に挙兵し、寿永2年(1183年)5月、倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を破って北陸道を攻め上り、7月には平家を都から追い出して京に入った。しかし京は何年も続いた飢饉で荒れていた。寄せ集めの大軍が居座ったことで食べ物はさらに足りなくなり、兵の略奪がやまなかった。義仲は皇位の継承にも口を出して後白河法皇と対立した。9月には備中の水島で平家に大敗し、10月、法皇は鎌倉の源頼朝に東海道・東山道の支配を認める宣旨をひそかに出して、頼朝に近づいた。

倶利伽羅峠の戦いに関わる図版:Battle of Kurikaradani Kassen Zu
倶利伽羅峠の戦いWikimedia Commons Katsukawa Shuntei, 1770-1820, artist · Public domain

追いつめられた義仲は11月、法皇の御所である法住寺殿を攻め、法皇を押しこめて政権を握った。翌寿永3年1月には征東大将軍に任じられている。頼朝はすでに弟の源範頼と義経を近江まで進ませていた。義仲の兵は、京に入ったころには数万といわれたが、敗戦と離反が重なって千騎あまりにまで減っていたとされる。

義仲は、京へ入る二つの道を固めた。東の瀬田の唐橋には腹心の今井兼平を、南の宇治には志田義広らを置き、自らは少数で法皇の御所を守った。頼朝方は、範頼が大手として瀬田を、義経が搦手として宇治を攻めた。頼朝方の兵を数万とする記録もあるが、そのまま信じることはできない。宇治の守り手は橋板を外し、川には冬の雪どけで水かさが増していた。

源義経の肖像
源義経Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

宇治川を渡る場面は『平家物語』の名場面として知られる。頼朝から名馬の生唼(いけずき)を与えられた佐々木高綱と、磨墨(するすみ)を与えられた梶原景季が、先陣を争って川に乗り入れた。高綱は、先を行く景季に「馬の腹帯がゆるんでいる」と声をかけ、景季が締め直すすきに追い抜いて、真っ先に向こう岸に着いたという。これが「宇治川の先陣争い」である。物語の脚色を含むが、急流を馬で押し渡って守りを破ったことは確かである。

宇治を突破された義仲軍は崩れ、義経の軍は京へなだれこんだ。義仲は法皇を連れて西へ逃れようとしたが、義経は自ら数騎を率いて御所に駆けつけ、法皇の身柄を押さえた。義仲は今井兼平と合流するために瀬田へ向かい、近江の粟津で兼平と会えたものの、範頼の軍に囲まれた。『平家物語』は、最後まで従った女武者の巴を義仲が落ちのびさせ、主従わずか数騎になったところで、義仲が顔に矢を受けて討たれ、それを見た兼平が太刀をくわえて馬から飛び降りて自害したと語る。義仲は31歳だった。

この勝利で、頼朝は都と法皇を自分の手に収めた。範頼と義経はそのまま西へ向かい、わずか半月あまりのちの2月7日、摂津の一ノ谷の戦いで平家を破る。平家と戦う源氏の主役が、義仲から頼朝へと決まったことで、のちの鎌倉幕府の成立への道が開けた。義仲の短い栄華と最期は、『平家物語』の「木曾最期」の章で哀れ深く語られ(『平家物語』と琵琶法師)、近江の義仲寺には義仲の墓とされる塚がある。のちに松尾芭蕉は遺言でその隣に葬られた。

一ノ谷の戦いに関わる図版:Battle of Ichi-no-Tani Folding Screen by Kano School
一ノ谷の戦いWikimedia Commons Kano School · Public domain

宇治は平安時代から貴族の別荘地で、川のほとりには藤原頼通が建てた平等院鳳凰堂がいまも立つ。京の南の入口を守る宇治川は、その後も承久の乱などで何度も戦場になった。

動画(1)

武士を解放する血塗られた革命【宇治川の戦い】世界の戦術戦略を解説『源平合戦4』非株式会社いつかやる義経が宇治川を押し渡り木曾義仲を破るまでを解説する

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