アウデナールデの戦い
概要
スペイン継承戦争で、マールバラ公とオイゲン公がスヘルデ川を急いで渡り、指揮の割れたフランス軍を破った戦い。
場所
50.85°N 3.60°E · ベルギー・フランデレン地域東フランデレン州
関わった人(3)
ルイ14世AD1638年9月5日–AD1715年9月1日 · 孫ブルゴーニュ公とヴァンドーム公に軍を託したマールバラ公ジョン・チャーチル1650年–AD1722年6月27日 · オイゲン公と同盟軍を率いたプリンツ・オイゲンAD1663年10月18日–AD1736年4月21日 · マールバラ公と同盟軍を率いた本文
ラミイの戦いの後、戦争は膠着した。同盟軍はフランス本土へ踏み込めず、フランスもハプスブルク家の領地へ攻め込めなかった。1708年、ルイ14世はフランドルの軍約8万5000を、孫のブルゴーニュ公と歴戦のヴァンドーム公の二人に託した。だが若い王孫と老練な将軍は、どこを攻めるかをめぐって初めから言い争った。
フランス軍は1か月あまり動かなかったが、7月5日、不意に西へ動いてブルッヘとヘントを奪った。これでスヘルデ川の流れを国境からヘントまで押さえたことになる。残る同盟側の要塞アウデナールデを取れば、マールバラ公の軍は海岸から、つまりイングランドとの連絡から切り離される。不意を突かれたマールバラは、ライン方面から来るサヴォイア公子オイゲンの合流を待ってから動いた。

マールバラはフランス軍の狙いを読み、強行軍で7月10日にレシーヌを先に押さえた。さらに主計総監カドガンに1万1000を預けて先行させ、スヘルデ川の渡河点に舟橋を5本架けさせた。8万の軍がこれを渡り始めた11日の朝9時ごろ、糧秣を集めていたフランス兵が対岸の連合軍に気付き、戦いが始まった。
フランスの前衛を率いるビロン公は、湿地で騎兵は動けないと聞いていたうえ、思いのほか多い連合軍を見て、渡河をためらった。カドガンはその間に、孤立していたスイス傭兵の7個大隊を打ち破った。このとき突撃した騎兵の中には、のちのイギリス王ジョージ2世がいた。午後4時ごろ、ブルゴーニュ公はヴァンドームの反対を押し切って攻撃を命じたが、フランス軍の左翼は、理由のはっきりしないまま最後まで動かなかった。ヴァンドームは自ら半槍を手に歩兵の先頭で戦い、全体を指揮できる者がいなくなった。
連合軍の側も万全ではなかった。オランダの戦場代表ゴスリンガは、前夜に馬ごと深い溝に落ちたマールバラが、この日は迷っているように見えたと書いている。その代表たちの求めで、それまで後ろに控えていたオイゲンが右翼を、マールバラが左翼を受け持った。マールバラは着いたばかりのヘッセンとハノーファーの歩兵18個大隊を左に置き、疲れたプロイセン兵を右のオイゲンのもとへ回した。そのうえで、オーフェルケルク率いるオランダ軍約2万5000に、フランス軍の右翼を大きく回り込ませる両翼からの包囲を企てた。壊れた舟橋が使えず、町の石橋を回ったために1時間遅れたが、オランダ軍は午後6時ごろに着き、オランダ騎兵がコルトレイクへの退路を断った。
包囲が閉じる前に日が暮れた。暗がりのなかで、連合軍の左右の両翼が互いを敵と思い込んで撃ち合う場面もあり、オイゲンとオラニエ公が割って入ってやめさせた。フランス軍は夜の闇と壊れた舟橋に救われて、混乱のままヘントへ退いた。損害は1万4000から1万5000、うち8000ほどが捕虜で、大砲25門を失った。連合軍の損害は3000ほどとされる。フランス軍の半分ほどは、戦いのあいだずっと動かずにいた。二人の総司令官は、負けの責任を互いになすり付け合った。
マールバラは「オイゲン公と私は、栄誉の分け前で争うことは決してない」と書いた。二人の名将の連携は、この戦いでもっともよく働いた。連合軍は勢いに乗ってヨーロッパ最強の要塞とも言われたリールを囲み、オイゲンが包囲を、マールバラが援護を受け持った。町は10月22日に降ったが、ブフレール元帥の守る城塞が降ったのは12月10日だった。年末までにヘントとブルッヘも取り返し、フランス軍はスペイン領ネーデルラントのほとんどから追い出された。翌年、追い詰められたフランスは講和を求め、それが破れてマルプラケの戦いが戦われる。