できごと

ラミイの戦い

Battle of Ramillies
AD1706年5月23日
重要度 2
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概要

スペイン継承戦争で、マールバラ公が陽動と騎兵の移し替えでヴィルロワ元帥のフランス軍を破った戦い。南ネーデルラントの大半が同盟側に落ちた。

場所

ラミイ
50.64°N 4.91°E · ベルギー・ワロン地域ブラバン・ワロン州

関わった人(2)

ルイ14世AD1638年9月5日–AD1715年9月1日 · ヴィルロワに攻勢を促したマールバラ公ジョン・チャーチル1650年–AD1722年6月27日 · 同盟軍の総司令官

本文

ブレンハイムの戦いで大敗した後も、フランスはすぐには崩れなかった。1705年、マールバラ公はモーゼル川からフランス本土へ攻め込もうとしたが、領土の守りを薄くしたくないオランダと、兵を出せなくなったバーデン辺境伯に足を引っ張られ、ほとんど何も得られずに年を終えた。翌1706年の春には、北イタリアでヴァンドーム公が4月に帝国軍を破り、アルザスではヴィラール元帥がバーデン辺境伯をライン川の向こうへ押し返した。

勢いづいたルイ14世は、有利な講和を得るために、フランドルにいるヴィルロワ元帥に攻勢を促した。ヴィルロワはブレンハイムの雪辱を期して、5月18日に約6万の兵を率いてルーヴェンを出た。マールバラもマーストリヒト近くに英蘭軍約6万2000を集め、遅れていたデンマークの騎兵に強行軍で追い付くよう頼んだ。もう一人の名将サヴォイア公子オイゲンは、この年は北イタリアにいて、この戦いには加わっていない。

ルイ14世の肖像
ルイ14世Wikimedia Commons Hyacinthe Rigaud · Public domain

両軍は、相手がそれほど近くにいるとは思わないまま、メハイニュ川と小ゲート川に挟まれた乾いた高台で出会った。5月23日の朝は霧が出ていた。フランス軍はラミイ村を中央に、右はタヴィエ村、左はオフュとオートル=エグリーズの村まで、約6キロに陣を張った。左の正面には小ゲート川が深く刻まれ、斜面はぬかるんでいた。マールバラはのちに、フランス軍はこれまで見たどの軍よりも見事だったと語ったという。

午後、マールバラは右翼でオークニー伯の英歩兵に小ゲート川を渡らせ、オフュとオートル=エグリーズを攻めさせた。ヴィルロワは、イギリス兵の最初の突撃に特に備えよとルイ14世から念を押されていた。英軍が村の線を破りそうになると、彼はこの方面に騎兵や歩兵を次々に回した。ところがマールバラは、ここでは騎兵を使えず勝てないと見て、オークニーを呼び戻した。この攻撃が初めから陽動だったのか、本気の探りだったのかは、歴史家の間でも意見が分かれる。いずれにせよ、ヴィルロワの目と兵はこちらに引き付けられた。

その間に戦いの重心は反対の左翼へ移っていた。オランダ軍がタヴィエ村を奪い、オーフェルケルク率いるオランダ騎兵が、フランス王家の近衛騎兵(メゾン・デュ・ロワ)とぶつかった。マールバラは敵から見えない窪地を通して、右翼の騎兵を左へ移した。乱戦のなかで彼自身も落馬し、替え馬に乗るのを手伝った副官ブリングフィールドが砲弾で首を飛ばされたと伝えられる。やがてヴュルテンベルク公の率いるデンマーク騎兵21個中隊がタヴィエの側から回り込み、フランス騎兵の脇腹と背後に出た。

ヴィルロワは遅まきながら、左翼で使わずにいた騎兵を南へ向け直そうとした。だが陣の後ろに片付けずに残した荷車や天幕に阻まれ、隊列を組めなかった。フランスとバイエルンの騎兵は北へ逃げ出し、歩兵もそれに続いた。戦いは4時間足らずで決着し、追撃は真夜中過ぎまで続いた。フランス側の損害は史料によって大きく違い、死傷と捕虜を合わせて1万3000から2万を超えるまでの幅がある。連合軍の損害はそれよりずっと少なかった。フランス軍は大砲52門と渡河用の舟橋も失った。ヴィラール元帥はこの敗走を、もっとも恥ずべき屈辱的な潰走と呼んだ。

勝利の後は早かった。5月25日にルーヴェン、28日にスペイン領ネーデルラントの都ブリュッセルが落ち、メヘレン、ヘント、ブルッヘ、6月6日にはアントウェルペンが続いた。これらの町は、同盟側がスペイン王に推すハプスブルク家のカール大公を君主と認めた。ルイ14世はヴァンドーム公をイタリアから呼び戻してフランドルを任せたが、9月にはそのイタリアでオイゲンがトリノで勝ち、フランスはこの年、北でも南でも大きく領土を失った。同盟の側から見て、1706年は奇跡の年と呼ばれる。ヴィルロワは二度と野戦軍を任されなかった。戦争はなお続き、2年後のアウデナールデの戦いへとつながる。

動画(1)

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