マルプラケの戦い
概要
スペイン継承戦争で、マールバラ公とオイゲン公がヴィラール元帥のフランス軍を退けた戦い。勝った側の死傷が負けた側の倍近くにのぼった。
場所
50.34°N 3.88°E · フランス・オー=ド=フランス地域圏ノール県
関わった人(3)
ルイ14世AD1638年9月5日–AD1715年9月1日 · 何としてもモンスを守れと命じたマールバラ公ジョン・チャーチル1650年–AD1722年6月27日 · オイゲン公と同盟軍を率いたプリンツ・オイゲンAD1663年10月18日–AD1736年4月21日 · 右翼を率い、頭に傷を負った本文
1709年の初め、フランスは財政が破綻していた。そこへ大寒波が襲い、飢えが広がり、国境の守備隊では反乱まで起きた。戦争を終わらせたいルイ14世はハーグで講和の交渉を始め、孫のフェリペ5世をスペイン王位から降ろすことまで受け入れた。だが同盟側が、フェリペを追い出すのにフランス軍を使えと求めたことだけは呑めず、交渉は4月末に破れた。ルイ14世は北フランスを守るヴィラール元帥に、決戦を避けて守りを固めよと命じた。
同盟側は、フランスはもう崩れる寸前だと見ていた。アウデナールデの戦いで勝ったマールバラ公とサヴォイア公子オイゲンは、6月15日からトゥルネーを囲み、9月3日に降した。ヨーロッパ屈指の要塞が予想より早く落ちたので、ルイ14世はヴィラールに、次に狙われるモンスを「何としても」守れ、フランスの命運がかかっていると命じた。ヴィラールが着く前にモンスは囲まれたが、彼は決戦で一気に勝てると考えた。

9月9日、両軍はモンスの南西、マルプラケの森の切れ目を挟んで向き合った。連合軍は雨のなかで散らばった兵を集めるのに手間取り、さらにトゥルネーから来る21個大隊を待って攻撃を11日に延ばした。この遅れはのちに強く批判されている。ヴィラールはその間に、中央の開けた土地に土塁を築き、両側の森の中まで塹壕を延ばした。フランス軍は約7万5000(9万とも)、連合軍は約8万6000(11万とも)。フランスの右翼は、位はヴィラールより上でありながら自ら下に付くことを申し出た67歳のブフレール元帥が率いた。
マールバラの策はブレンハイムの戦いやラミイと同じだった。両翼を激しく攻めて敵に中央の兵を割かせ、薄くなった中央を騎兵の大群で破る。11日の朝7時に砲撃が始まり、8時半、オイゲンの右翼がサールの森のフランス軍に襲い掛かった。オイゲンは軽い傷を負ったが戦場を離れなかった。9時ごろには左翼のオランダ歩兵がフランスの右翼を攻め、ブレロン農場を奪ったものの、5000を超える死傷を出して押し戻された。左翼のオランダ歩兵の損害は、この日だけで8000を超えた。
今度の相手は違った。戦場が狭く、ヴィラールは歩兵を守りやすい陣地に集めることができ、マールバラが得意とした両翼の間の兵の素早い移し替えもできなかった。それでも右翼からの圧力に耐えかねたヴィラールは、左翼を支えるために中央から兵を引き抜いた。昼過ぎ、ヴィラールは重い傷を負って指揮をブフレールに譲った。オークニー伯の英歩兵が中央の土塁を乗り越え、続いて18世紀で最大とも言われる騎兵戦が始まった。フランスの近衛騎兵(メゾン・デュ・ロワ)は何度も連合軍の騎兵を押し返したが、左翼も崩れ始め、午後3時、ブフレールは25キロ離れたル・ケノワへの退却を命じた。フランス軍は隊列を保ったまま退き、疲れ切った連合軍は追えなかった。
連合軍の死傷は2万1000から2万5000、フランス軍は1万1000から1万4000とされる。勝った側が負けた側の倍近い血を流したことになる。オークニーは、死体が羊の群れのように厚く横たわっていたと書いた。ブフレールは王に、これほど大きな栄光を伴った不運はかつて無かったと報告し、ヴィラールはのちに、神がもう一度このような敗北をお与えくだされば陛下の敵は滅びるでしょう、と書いたと伝えられる。
モンスは10月21日に降り、連合軍は翌年も国境の要塞を落としていった。だがこの損害はイギリス国内で戦争への嫌気を強めた。1710年の総選挙では戦争の継続に慎重なトーリー党が大勝し、マールバラは1711年の末に総司令官の職を解かれた。一方スペインでは同盟側が敗れ続け、フェリペ5世の王位は動かなくなった。ヴィラールが軍を残したことで、フランスは1713年のユトレヒト条約で、1709年に突き付けられたものより良い条件を得たと見る歴史家も多い。フランスの童謡「マールブルーは戦争に行った」は、この戦いの後にマールバラ戦死の噂から広まったと伝えられる。