鏡の間とサン=ゴバン
概要
鏡はヴェネツィアの独占で、極端に高価だった。コルベールは職人を金で引き抜き、パリに工房を作らせた。ヴェネツィアは追手を送り、職人の一人が死んだ。フランスは1688年に、吹いて広げるのではなく溶けたガラスを台に流して延ばす鋳造法を得て、大きな板を作れるようになった。ヴェルサイユの鏡の間には357枚が並ぶ。輸入を止め、国内で作り、輸出する。重商主義の実演であり、この工房は今日のサン=ゴバン社になった。
場所
48.80°N 2.12°E · フランス
関わった人(1)
コルベールAD1619年8月29日–AD1683年9月6日 · 引き抜いた本文
17世紀の半ば、ガラスの鏡はヴェネツィアのムラーノ島の職人がほぼ独り占めしていた(ムラーノの硝子職人)。値段は途方もなく高かった。フランスの貴婦人が一枚の鏡のために土地を売った、同じ頃に名画をずっと安く買っていた、といった話がいくつも伝えられている。どこまで本当かは分からないが、フランスが毎年ヴェネツィアに大きな額の金を払って鏡を買っていたことは確かだった。
これを許せなかったのが、ルイ14世の財務総監コルベール(1619〜1683年)である。国の富は国に流れ込む金銀の量で決まる、と考える重商主義の立場から、彼は高価な品の輸入を止め、国内で作り、できれば外へ売ることを目指した。織物、レース、陶器、そして鏡。王の名のもとに各地に工房を興し、外国から腕のいい職人を招いた。

1665年、ヴェネツィア駐在のフランス大使が、ムラーノの職人にひそかに接触した。高い報酬と住まい、フランスでの身分の保証を条件に誘い、何度かに分けて十数人から二十人ほどがフランスへ渡った。こうしてパリのフォーブール・サン=タントワーヌに、王立の鏡の製作所が開かれた。
ヴェネツィアは激怒した。共和国の秘密の治安機関である十人委員会が動き、残された家族に圧力をかけ、使者を送って職人たちに帰国を迫った。そして1667年、フランスに渡った職人のうち二人が相次いで急死した。毒を盛られたのではないかと疑われ、当時のフランスの外交文書にもその疑いが記されている。ただし確かな証拠は無く、当時は原因の分からない死も珍しくはなかった。それでも職人たちは震え上がり、何人かはヴェネツィアへ戻った。だが技はすでにフランス人の徒弟たちに伝わっていて、工房は止まらなかった。

この頃、パリの郊外では新しい宮殿の工事が進んでいた。ヴェルサイユである。1678年、建築家ジュール・アルドゥアン=マンサールの設計で、庭園に面した長い回廊の工事が始まり、画家シャルル・ル・ブランが天井画と装飾を任された。1684年に完成したのが「鏡の間」である。長さは73メートル、幅は10.5メートル、高さは12.3メートルある。庭に面して17の大きな窓が並び、その向かいの壁に17のアーチが並んで、そこに357枚の鏡がはめ込まれた。
当時の技術では、一枚の鏡はそれほど大きく作れなかった。そこで小さな鏡を格子のように並べて、大きな鏡の面に見せたのである。鏡は窓の外の庭を映し、昼は両側から光が差し込んでいるように見えた。夜には無数の蝋燭の炎が鏡に映り込み、部屋全体が光で満たされた。これほど明るい室内は、当時ほかに無かった。しかも、その鏡はフランスの工房で作られたものだった。

この部屋は、ただの飾りではなかった。ヴェネツィアから技術を奪い取ったという宣言であり、これほどの鏡を持つ王の富を見せつける舞台だった。1682年に宮廷がヴェルサイユへ移って以来(ヴェルサイユ宮殿への移座)、外国の使節は王に会う前にこの回廊を通らされた。1686年にはシャム(いまのタイ)の使節が、1715年にはペルシアの使節が、ここで王に迎えられている。
鏡の間が完成した後、フランスはさらに先へ進んだ。ヴェネツィアのやり方は、ガラスを吹いて円筒にし、切り開いて平らに延ばすもので、人の肺と腕で吹ける大きさが限界だった。1688年ごろ、フランスの工房では、溶けたガラスを平らな金属の台に流し、ローラーで延ばして板にする鋳込みの方法が実用化された(板ガラスと窓)。冷えた板は両面を何日もかけて磨かなければならなかったが、大きさの壁は取り払われた。人の背丈を超える一枚の鏡が作れるようになったのである。1690年代、その工場はピカルディ地方の村サン=ゴバンに置かれた。燃料の薪を取る森が近く、良い砂もあったからである。村の名が、のちに会社の名になった。
結果として、フランスは鏡を買う国から売る国になった。18世紀には、フランスの鏡がヨーロッパの市場を制し、ヴェネツィアの鏡は衰えていく。そして、鏡は安くなった。18世紀を通じて値段は下がり続け、貴族の館だけでなく、やがて町の中流の家々の壁にも鏡が掛かるようになった。
これが人の自己意識にも関わった、と考える研究者もいる。自分の顔をはっきりと、毎日のように見るようになったのは、近代に入ってからのことである。それまで多くの人は、水面や磨いた金属に映るぼやけた像でしか、自分の顔を知らなかった。鏡の歴史を書いたサビーヌ・メルシオール=ボネは、自分の姿を映して確かめる習慣と、個人という考え方の広がりとを結びつけて論じている。証明できることではないが、考えさせる議論である。
サン=ゴバンの工場は、フランス革命で王の特権を失ったが、会社として生き延びた。いまのサン=ゴバン社は、1665年の王立の製作所を起源とし、建材やガラス、高機能の素材を扱う世界的な企業として、16万人ほどを雇っている。鏡を輸入したくないという理由で王が作らせた工房が、360年近く続いているのである。
鏡の間は、その後も歴史の舞台になった。1871年1月18日、普仏戦争でヴェルサイユを占領していたプロイセンは、この回廊でヴィルヘルム1世をドイツ皇帝とし、ドイツ帝国の成立を宣言した。フランスの栄光を象徴する部屋で、敵の皇帝が生まれたのである。48年後の1919年6月28日、第一次世界大戦に敗れたドイツは、同じ部屋でヴェルサイユ条約に署名させられた。報復だった。そしてその条約の重さが、次の戦争を準備したとも論じられている。ルイ14世の権勢を映すために作られた357枚の鏡は、二つの国の屈辱を、代わる代わる映してきた。