マールバラ公ジョン・チャーチル
概要
スペイン継承戦争の英蘭連合軍の総司令官。ブレンハイムなどでフランス軍を破り、一度も敗れなかったと言われる。
関わったできごと(5)
名誉革命と権利章典1688年 · ジェームズ2世を見限りウィレムに付いたブレンハイムの戦いAD1704年8月13日 · 英蘭連合軍の総司令官ラミイの戦いAD1706年5月23日 · 同盟軍の総司令官アウデナールデの戦いAD1708年7月11日 · オイゲン公と同盟軍を率いたマルプラケの戦いAD1709年9月11日 · オイゲン公と同盟軍を率いた本文
マールバラ公ジョン・チャーチルは、1650年5月26日(当時のイングランドの暦による)、イングランド南西部デヴォンのアッシュ・ハウスで生まれた。父のウィンストン・チャーチルは清教徒革命で王党派に付いた地方の紳士で、内戦に敗れて財産の多くを失っていた。王政復古ののち一家は宮廷に職を得て、姉のアラベラはヨーク公ジェームズ(のちのジェームズ2世)の愛人となり、ジョン自身も十代でヨーク公の小姓になった。
1667年に近衛歩兵の少尉となり、北アフリカのタンジールの守備に出た。1672年からの英仏同盟の時代には、フランス軍とともにオランダと戦い、テュレンヌ元帥の下で実戦を学んだ。1673年のマーストリヒトの包囲では、国王チャールズ2世の庶子モンマス公の命を救ったと伝えられる。1678年ごろ、ヨーク公の娘アン王女に仕えるサラ・ジェニングズと結婚した。サラとアンは身分を越えた親友で、この縁がのちにチャーチルの運命を大きく左右する。
1685年、ジェームズ2世が即位すると、モンマス公が王位を求めて反乱を起こした。チャーチルは国王軍の副将として、7月のセッジムーアの戦いで反乱軍を破った。かつて命を救ったと伝えられる相手を討ったことになる。ところが1688年、オランダのオラニエ公ウィレムが上陸すると、チャーチルはジェームズを見限ってウィレムの側に移った。国王軍の要が寝返ったことで、ジェームズは戦わずに国を捨てた(名誉革命と権利章典)。新王ウィリアム3世は彼をマールバラ伯に取り立てたが、1692年には、亡命したジェームズと通じた疑いで職を解かれ、一時ロンドン塔に入れられた。のちに疑いの元の手紙は偽造と分かった。

王の信頼を取り戻したのは晩年のウィリアムとの和解による。1701年、スペイン王位をめぐってルイ14世との戦争が避けられなくなると、ウィリアムは彼をネーデルラントの英軍の指揮官に任じ、大同盟の交渉も任せた。翌1702年にウィリアムが死に、親友サラの主人アンが女王になった。マールバラは総司令官に任じられ、その年の暮れに公爵に上げられた。この年から1711年まで、彼はネーデルラント連邦共和国の軍と英軍を合わせた同盟軍を率いて、毎年のように戦場に出ることになる。
最大の賭けは1704年だった。バイエルンがフランスに付いて皇帝の都ウィーンが脅かされると、マールバラは味方のオランダ議会にも行き先を隠したまま、ネーデルラントから軍をドナウ川まで運んだ。帝国軍を率いるプリンツ・オイゲンと合流し、8月13日のブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン軍を破って、タラール元帥を捕らえた。妻サラには、酒場の勘定書きの裏に、女王の軍が輝かしい勝利を得たと走り書きを送っている。フランス軍が野戦で大敗したのは数十年ぶりで、ヨーロッパの力の釣り合いがこの一日で変わった。
その後もマールバラは勝ち続けた。1706年のラミイの戦いでは陽動と騎兵の移し替えでヴィルロワ元帥を破り、南ネーデルラントの大半を手に入れた。1708年のアウデナールデの戦いではオイゲンと組んでフランス軍を破り、続けて大要塞リールを落とした。生涯に一度も戦いと包囲に敗れなかったと言われる。兵の食べ物や靴まで前もって手配し、兵を無駄に疲れさせない将として、兵士たちからは伍長ジョンと親しまれた。
だが1709年のマルプラケの戦いでは、勝ちはしたものの同盟軍の死傷は2万を超え、フランス軍の倍近くにのぼった。長い戦争と重い税に国内は倦み、宮廷では気の強いサラがアン女王と仲違いして、女王の寵愛は従妹のアビゲイル・マシャムに移っていた。1710年の総選挙で講和を望むトーリー党が大勝し、マールバラは1711年の末、公金の流用の疑いをかけられて総司令官を解かれた。同盟側を抜けたイギリスはフランスとの講和に進み、1713年のユトレヒト条約で戦争は終わった。
マールバラは一時大陸へ移り住み、1714年にアンが死んでハノーファー家のジョージ1世が即位すると、帰国して総司令官に戻った。しかし1716年に重い発作で倒れ、以後は表に出なかった。1722年6月16日(グレゴリオ暦では27日)、ウィンザーで死んだ。女王が戦勝の褒美として与えたウッドストックの地には、建築家ヴァンブラによるブレナム宮殿が建てられ、完成はサラが見届けた。
一人息子は若くして死んだため、公爵の位は特別の法で娘たちの家に引き継がれた。19世紀に生まれた子孫の一人が、第二次世界大戦の首相チャーチルである。チャーチルは1930年代に4巻の伝記を書き、寝返りや蓄財で汚された先祖の名誉を取り戻そうとした。いまでもマールバラは、イギリスが生んだ最も優れた将軍の一人に数えられる一方、主君を替え、財をため込んだ野心家としての評判もついて回っている。