プリンツ・オイゲン
概要
パリに生まれ、ハプスブルク家に仕えた将軍。ゼンタでオスマン軍を、ブレンハイムでフランス軍を破った。
関わったできごと(4)
第二次ウィーン包囲AD1683年 · 志願して救援軍に加わった若者ブレンハイムの戦いAD1704年8月13日 · 帝国軍を率いて右翼を受け持ったアウデナールデの戦いAD1708年7月11日 · マールバラ公と同盟軍を率いたマルプラケの戦いAD1709年9月11日 · 右翼を率い、頭に傷を負った本文
プリンツ・オイゲン(サヴォイア公子オイゲン)は、1663年10月18日、パリで生まれた。父はサヴォイア家の分家にあたるソワソン伯ウジェーヌ・モーリス、母は宰相マザランの姪オランプ・マンシーニである。母は若いルイ14世と親しかったが、宮廷を揺るがした毒薬事件に名が挙がって1680年にフランスを逃れた。小柄で見栄えのしない少年は聖職者になるよう育てられたが、本人は軍人を望んだ。
20歳のころ、ルイ14世に軍の職を願い出て断られた。オイゲンはフランスを去り、1683年の夏、オスマン帝国の大軍に囲まれたウィーンを救おうとしていた皇帝レオポルト1世の下に身を投じた。兄の一人がその少し前に皇帝軍で戦死していた。9月の第二次ウィーン包囲の解放戦に加わり、その年の暮れには竜騎兵連隊を任された。こののちオイゲンは、フランスを敵として半世紀以上ハプスブルク家に仕えることになる。名前は、イタリア語・ドイツ語・フランス語を組み合わせて「エウジェーニオ・フォン・サヴォワ」と署名した。

オスマン帝国との戦争で頭角を現し、1693年に元帥となった。名を高めたのは1697年9月11日のゼンタの戦いである。ティサ川を渡ろうとしていたスルタン・ムスタファ2世の軍を、渡河の最中に襲って壊滅させた。オスマン軍の死者は数万にのぼったのに対し、皇帝軍の損害はわずかだったとされる。この勝利が1699年のカルロヴィッツ条約につながり、ハンガリーの大半がハプスブルク家の手に入った。
スペイン継承戦争が始まると、オイゲンは北イタリアでフランス軍と戦い、1703年には皇帝の軍事を統べる宮廷軍事会議の長になった。1704年、ドナウに来たマールバラ公(マールバラ公ジョン・チャーチル)と合流し、8月13日のブレンハイムの戦いでは右翼を受け持った。三度押し返されながらバイエルン軍をその場に縫い止め、中央の突破を助けた。二人の名将は性格も育ちも違ったが、手柄を争わずに互いを立て、その協力は戦史の上でも珍しいものとされる。
1706年にはイタリアへ戻り、9月7日、いとこのサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世とともに、フランス軍に囲まれていたトリノを救った。これでフランス軍は北イタリアから退いた。1708年には再びマールバラと組んでアウデナールデの戦いに勝ち、続くリールの包囲を指揮した。1709年のマルプラケの戦いでは右翼を率い、頭に傷を負いながら戦場に留まった。1712年、イギリスが同盟を抜けたあとのドナンでヴィラール元帥に敗れ、1714年にはそのヴィラールとラシュタットで講和の条約を結んだ。
戦いはなお続いた。1716年、オスマン帝国との戦争が再び起きると、ペーターヴァラディンで大軍を破り、翌1717年にはベオグラードを囲んだ。救援に来たオスマンの大軍に逆に囲まれる形になったが、8月16日の朝霧の中で打って出て勝ち、町を降した。翌年の講和でベオグラードとその周りが一時ハプスブルク家に移った。のちにドイツ語圏で長く歌われる軍歌「プリンツ・オイゲン、高貴なる騎士」は、このベオグラードの勝利を歌ったものである。
戦場の外では、大きな教養と財を持つ人でもあった。ウィーンに夏の離宮ベルヴェデーレ宮殿を建て、膨大な書物と美術品を集めた。哲学者ライプニッツとも親しく交わった。生涯妻を持たなかった。晩年の皇帝カール6世に、娘マリア・テレジアの相続を各国に認めさせる約束よりも、強い軍と満ちた国庫のほうが頼りになると説いたと伝えられる。
1734年、ポーランド継承戦争では70歳を過ぎてライン川の軍を率いた。往年の冴えは無かったが、陣営にはのちのフリードリヒ2世(大王)となるプロイセンの王太子が学びに来ていた。1736年4月21日、ウィーンの屋敷で眠ったまま死んでいるのが見つかり、シュテファン大聖堂に葬られた。フランスに生まれて皇帝に仕え、三代の皇帝の下で帝国をオスマンとフランスの両方から守った将軍として、オーストリアではいまも国の英雄に数えられている。