できごと

マルセイユ石鹸の勅令

The Marseille soap edict
AD1688年10月
重要度 3
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ネーデルラント連邦共和国大英帝国スウェーデン帝国モロッコポーランド・リトアニア共和国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインEngland and IrelandダルフールScottalndヴェネツィア共和国NaplesルクセンブルクプロイセンAD1688年10月マルセイユ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1688年10月の版図を描いています(22勢力)。

概要

ルイ14世の治世、財務総監コルベールが敷いた産業統制の路線のもとで、マルセイユの石鹸に規格が定められた。原料はオリーブ油に限り、動物性の脂を混ぜてはならない。違反すれば罰し、製品を没収する。産地の名を、品質の保証として守る仕組みである。油と灰汁を煮るという製法自体は古く、地中海の各地にあった。そこに国家が線を引き、名前に値打ちを与えた。原産地の呼称を法で囲うやり方は、後にワインとチーズへ広がる。匂いを扱う技術が、産業と、制度になった。

場所

マルセイユ
43.30°N 5.37°E · フランス

本文

石鹸は、油とアルカリを一緒に煮るとできる。油脂が分解されて脂肪酸の塩になり、その分子は一方の端が油になじみ、もう一方の端が水になじむ。だから油の汚れを包み込んで、水の中へ連れ出すことができる。この反応は、偶然にも起きる。獣の脂が焚き火の灰に落ち、そこに雨が降れば泡が立つ。ローマのサポーという丘で、いけにえの脂と灰が川に流れ込み、そこで洗うとよく落ちた、という言い伝えがあるが、古い出典ははっきりしない。

記録はずっと古くからある。メソポタミアの粘土板には、油と灰を水で煮る手順が書かれているが、洗うためのものか、薬か、羊毛の下ごしらえか、決めるのは難しい。エジプトのエーベルス・パピルスにも、油とアルカリの塩を合わせる処方が見える。ローマのプリニウスは『博物誌』で、サポーと呼ばれるものをガリアやゲルマニアの人々の発明として紹介し、髪を赤く染めるために使うと書いている。洗う道具としてではなかった。作り方はあちこちで知られていた。問題は、それを何に使い、どう売るかだった。

フランス領ダホメ、ポルトノボの石鹸工場(1895年の木版画)
フランス領ダホメ、ポルトノボの石鹸工場(1895年の木版画)Wikimedia Commons Alexandre d'Albéca · Public domain

地中海の沿岸では、動物の脂ではなくオリーブ油で石鹸が作られた。匂いが穏やかで、肌に優しく、何より原料がその土地で採れる。アルカリには、海辺に生える塩分の多い草を焼いた灰を使った。ソーダ灰と呼ばれ、スペインのものが上等とされて各地へ売られた。シリアのアレッポでは、オリーブ油に月桂樹の油を加えた石鹸を切り分けて長く寝かせ、表面が金色に変わるまで乾かした。スペインのカスティーリャ、イタリアのサヴォーナも石鹸で知られた。フランス語で石鹸をサヴォンと呼ぶのはサヴォーナの名から来たという説もある。そして、マルセイユである。

マルセイユが石鹸の町になったのには理由があった。港には、プロヴァンスやイタリア、北アフリカからオリーブ油が集まり、スペインからはソーダ灰が届く。大きな釜で何日も煮続けるための燃料も手に入った。17世紀に入ると工房の数は急に増え、マルセイユの石鹸はフランスの内外へ送り出されるようになった。

マルセイユ石鹸を包丁で塊に切る工程(1873年)
マルセイユ石鹸を包丁で塊に切る工程(1873年)Wikimedia Commons Louis Figuier / Jules Férat · CC BY 2.0

当時のフランスは、太陽王ルイ14世のもとで、国の産業を規則で整え、外国に負けない品を作らせようとしていた。この政策を進めたのが財務総監ジャン=バティスト・コルベールで、織物やレースなどに細かな製造の規則を定め、品質の悪い品を締め出した。コルベールは1683年に世を去ったが、彼の敷いた路線はその後も続いた。

1688年10月、マルセイユの石鹸についての勅令が出された。マルセイユの名で売る石鹸は、オリーブ油だけで作らなければならない。獣の脂を混ぜてはならない。暑い季節の製造を禁じる条項もあったとされる。夏は油の質が落ち、石鹸の出来が悪くなるからである。違反すれば罰金を科し、品物を取り上げる。こうして、産地の名に法が値打ちを与えた。マルセイユ石鹸という言葉は、場所の名であると同時に、規格の名になったのである。

マルセイユ石鹸の塊を針金で棒状に切る工程(1873年)
マルセイユ石鹸の塊を針金で棒状に切る工程(1873年)Wikimedia Commons Louis Figuier / Jules Férat / Bure, François Ernest · Public domain

18世紀には、マルセイユの石鹸の工房は数十に増えた。のちに石鹸には、作った工房の名や、油の割合を示す72パーセントという数字が刻印されるようになり、この刻印はいまも伝統的なマルセイユ石鹸の目印になっている。切り分けた四角い塊は、洗濯にも体を洗うのにも使われ、フランスの家庭の暮らしに深く入り込んだ。

19世紀に入ると、化学が石鹸を変えた。1791年、フランスのニコラ・ルブランが、塩からソーダ灰を化学的に作る方法の特許を取った。海辺の草を焼く必要がなくなり、原料の縛りが外れた。1820年代には化学者ミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールが油脂の成分を調べ上げ、石鹸ができる反応を化学として説明した。それまで職人の経験に頼っていた仕事が、理屈で語れるものになった。

白いマルセイユ石鹸
白いマルセイユ石鹸Wikimedia Commons INRA DIST from France · CC BY 2.0

石鹸は大量に作られ、大量に売られる品になった。イギリスやアメリカでは大きな工場が建ち、新聞や雑誌やポスターで派手な宣伝が行われた(石鹸と広告)。清潔であることは、品のよさや道徳と結びつけて語られるようになり、体の匂いそのものを恥ずかしいものとして売り込む広告も現れる(体臭を売る)。20世紀には石油から作る合成洗剤が登場した。硬い水でもよく泡立つ合成洗剤は洗濯の主役となり、石鹸の市場を大きく削った。

マルセイユ石鹸の勅令は、産地の名を法で囲い込むやり方の早い例とされる。同じ考え方は、のちにワインやチーズへ広がった。シャンパーニュ地方の発泡ワインや、洞窟で熟成させるロックフォールのチーズは、産地と作り方を法で守られている。フランスの原産地統制呼称の制度は20世紀に整えられたものだが、名前に値打ちを持たせ、それを国が守るという発想は、ここにさかのぼる。

ところが皮肉なことに、マルセイユ石鹸という名前そのものは、長いあいだ法で守られてこなかった。どこで作っても、どんな油を使っても、そう名乗ることができる。市場には遠い国で作られた安い品があふれ、マルセイユの伝統的な製造者たちは、昔ながらの製法を守る石鹸だけがその名を使えるよう、認証を求めて働きかけを続けてきた。300年前の勅令が守った名は、いまは自分の力で守らなければならなくなっている。

匂いと清潔さを扱う技術は、こうして産業になり、制度になった。香水の町グラース(グラースと香水)が香りの技術を磨き、ケルンのオーデコロンが地名そのものを商品の名にしたのも、同じ時代の流れの中のことである。ただ、名前が広く知られすぎると、やがて普通の言葉になり、誰のものでもなくなってしまう。マルセイユ石鹸がたどったのは、その道だった。

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