人物

メフメト2世

Mehmed II
AD1432年3月30日 – AD1481年5月3日(享年49)
オスマン帝国重要度 4

概要

21歳でコンスタンティノープルを落とした。船を陸越えさせ、巨砲で城壁を撃つ。ギリシア語とラテン語を読み、アレクサンドロスを手本にした。

所属

オスマン帝国

関わったできごと(2)

コンスタンティノープル陥落AD1453年5月29日 · 攻める側ベオグラードの包囲(1456年)AD1456年7月22日 · 退いた

本文

1432年3月30日、オスマン帝国の都エディルネで、スルタンのムラト2世の子として生まれた。母は後宮の女奴隷の出身だった。兄たちがいたため、初めは跡継ぎと見なされていなかったが、二人の兄が相次いで亡くなり、11歳ほどで唯一の後継者になった。父は息子にイスラームの学問と古典の教育を受けさせ、家庭教師には厳しい学者たちを付けた。言うことを聞かない王子を、教師が杖で打って従わせたという話も伝わる。

メフメト2世の肖像、ベッリーニ画
メフメト2世の肖像、ベッリーニ画Wikimedia Commons Gentile Bellini · Public domain

1444年、父ムラトは突然退位し、12歳のメフメトをスルタンの位に就けた。ハンガリーなどのキリスト教国は、幼い君主を好機と見て十字軍を送り込んだ。国の重臣たちはムラトを呼び戻し、ムラトはヴァルナの戦いで十字軍を打ち破った。少年スルタンは、その後も2年ほど位にあったが、イェニチェリと呼ばれる常備歩兵の騒乱をきっかけに、1446年、父が王位に戻り、メフメトは退けられた。このとき父へ、あなたがスルタンなら来て軍を率いよ、私がスルタンなら来るよう命じる、と手紙を書いたという話が伝わるが、確かではない。自分を退けた大宰相チャンダルル・ハリルを、メフメトは忘れなかった。

1451年、父が亡くなり、18歳で再び即位した。即位するとすぐ、まだ乳飲み子だった異母弟を殺させた。のちにメフメトは、王位を継いだ者は世の秩序のために兄弟を殺してもよい、と法に定める。王位をめぐる内乱を防ぐための、冷酷な決まりだった。

1451年のメフメト2世の即位
1451年のメフメト2世の即位Wikimedia Commons unknown ottoman Painter · Public domain

若いスルタンの心は、最初からコンスタンティノープルに向いていた。かつてコンスタンティヌス1世が都を置き(コンスタンティノープル遷都)、千年にわたってキリスト教の帝国の首都だった町である。東ローマ帝国は、1204年の第4回十字軍のコンスタンティノープル略奪以来すっかり衰え、この頃には城壁の内側と周りのわずかな土地を持つだけになっていた。それでも、陸側を三重の城壁が、海側を潮の流れと城壁が守るこの町は、何度もの包囲に耐えてきた。

1452年、メフメトはボスポラス海峡のヨーロッパ側の岸に、わずか4か月ほどで要塞を築かせた。対岸に曾祖父が築いた要塞と合わせて、黒海から町へ向かう船を止めるためである。さらに、ハンガリー出身とされる技師ウルバンに巨大な大砲を作らせた。ウルバンは初め、東ローマの皇帝に仕えようとしたが、皇帝には彼に払う金が無かった。大砲は長さ8メートルほど、500キロを超える石の弾を撃ち出したと伝えられる。何十頭もの牛で引かれ、一日に数発しか撃てなかったが、その一撃は古い城壁を揺るがした。

コンスタンティノープルに入城するメフメト2世 (ジャン=ジョゼフ=バンジャマン・コンスタン,1876)
コンスタンティノープルに入城するメフメト2世 (ジャン=ジョゼフ=バンジャマン・コンスタン,1876)Wikimedia Commons Jean-Joseph Benjamin-Constant · Public domain

1453年4月、メフメトは陸と海から町を囲んだ。兵力は8万とも10万とも言われ、守る側は7000ほどにすぎなかった。町の北側の入り江、金角湾の入口には太い鎖が張られ、オスマンの艦隊は湾に入れなかった。4月22日、メフメトは対岸の丘を越えて、油を塗った丸太の上を滑らせて70隻ほどの船を陸路で運び、一夜にして湾の中に浮かべた。守る側は、湾側の城壁にも兵を割かねばならなくなった。

5月29日の未明、総攻撃が始まった。何度かの攻撃が跳ね返されたのち、城壁の一角が破られ、オスマン兵がなだれ込んだ。最後の皇帝コンスタンティノス11世は、紫の衣を脱いで乱戦の中へ入り、そのまま行方が分からなくなった。包囲は53日に及んだ。メフメトは21歳だった(コンスタンティノープル陥落)。

コンスタンティノープル陥落に関わる図版:Siege of Constantinople fresco, Moldovița monastery, Vatra Moldoviței, 2017
コンスタンティノープル陥落Wikimedia Commons DimiTalen · CC0

その日の午後、メフメトは馬で町に入り、大聖堂ハギア・ソフィアへ向かった。イスラームの決まりに従って兵に略奪を許したが、町そのものを壊すことは望まなかった。大聖堂はモスクに改められ、メフメトは「ローマのカエサル」を名乗った。自分は東ローマ皇帝の後継者でもある、という宣言である。

都をこの町に移すと、メフメトは荒れ果てた町に人を呼び戻した。イスラーム教徒だけでなく、ギリシア人、アルメニア人、ユダヤ人を各地から移住させた。翌年、正教会の学僧ゲンナディオスを総主教に任命し、正教徒の信仰と、その内部の裁きを総主教に任せた。宗教ごとの共同体に自治を認める、オスマン帝国のやり方の始まりである。町の丘には新しい宮殿を建てさせた。いまのトプカプ宮殿である。

その後も遠征は続いた。セルビア、ギリシア南部、黒海南岸のトレビゾンド、ボスニアを次々に併合した。ドナウ川の北のワラキアでは、のちに「串刺し公」と呼ばれるヴラド3世と戦った(ヴラド串刺し公)。アルバニアでは、山岳の英雄スカンデルベグの頑強な抵抗に長く苦しんだ(スカンデルベグの抵抗)。ハンガリーのベオグラードの攻囲や、ロードス島の攻略には失敗している。1480年には、イタリア半島の南端のオトラントを一時占領し、ローマを震え上がらせた。彼は「征服者(ファーティフ)」と呼ばれる。

ヴラド串刺し公に関わる図版:Vlad Ţepeş, the Impaler, Prince of Wallachia (1456-1462) (died 1477)
ヴラド串刺し公Wikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

征服者は、学問と芸術を好む人でもあった。トルコ語、アラビア語、ペルシア語を操り、ギリシア語やイタリア語もある程度理解したとされる。宮廷にはギリシアやイタリアの学者を招き、ギリシア語の書物を集めた。アレクサンドロス3世の遠征を記した古代の書物を読ませ、この大王を手本にしていたと、彼に仕えたギリシア人の伝記作者は書いている。晩年にはヴェネツィアから画家ジェンティーレ・ベッリーニを招いて、自分の肖像を描かせた。その肖像画は、いまロンドンの美術館にある。

1481年春、メフメトは大軍を率いてイスタンブルを発ったが、行き先は誰にも告げなかった。イタリアだったとも、ロードス島だったとも、エジプトのマムルーク朝だったとも言われる。数日後の5月3日、アジア側の陣営で急に倒れ、亡くなった。49歳だった。毒を盛られたという噂もある。その死の知らせに、ローマでは祝いの鐘が鳴らされたという。彼が都とした町は、以後470年近く、オスマン帝国の首都であり続けた。

動画(1)

「LOVE アレクサンドロス先輩♡」征服者メフメト2世ってどんな人?【COTEN RADIO #128】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIOアレクサンドロスを手本にした21歳の征服者を扱う
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