ハウサ諸都市とカノ
概要
城壁に囲まれた交易と手工業の都市が並んだ。藍染めの穴が今も残る。帝国にまとまらないまま、サハラ交易の南の端として数百年続いた。
場所
12.00°N 8.59°E · ナイジェリア
本文
いまのナイジェリア北部からニジェール南部にかけて、ハウサ語を話す人々の都市がいくつも並んでいた。カノ、カツィナ、ザザウ(ザリア)、ゴビル、ダウラ、ラノ。ハウサの人々自身は、その始まりをこう語る。遠く東から来た英雄バヤジッダが、ダウラの井戸に棲む大蛇を退治して女王と結ばれ、その子や孫が七つの国を開いた。もちろん伝説だが、諸都市が自分たちを一つの家族と見ていたことを伝えている。
都市の歩みを伝えるのが、「カノ年代記」である。11世紀ごろとされるバガウダから歴代の王を並べ、それぞれの王の事績を記す。19世紀にまとめられた文書で、古い時代の年代は確かではないが、城壁を築き、周りの村々を従え、市を開いていく過程が読み取れる。

カノの城壁は日干し煉瓦で築かれ、何度も外へ広げられて、周囲は14キロほどに及んだ。城壁の内側には、市や住まいだけでなく畑や水場まで取り込まれていた。包囲されても中で食べていけるように作られていたことになる。いまも一部が残る。
14世紀、西のマリ帝国(マリ帝国の成立)から来た商人たちがイスラームを伝えた。15世紀後半の王ムハンマド・ルムファの時代、カノは大きく伸びる。城壁を広げ、大きな市を開き、北アフリカから来た法学者マギーリーを迎えて、イスラームの法に沿った統治の助言を受けた。マギーリーが王に宛てて書いた統治の心得は、今も伝わっている。ルムファの時代に開かれたと伝えられるクルミの市は、いまも町の真ん中で開かれている。

16世紀の初めには、フェズで育った旅行家レオ・アフリカヌスが、カノを城壁に囲まれた富裕な町として記している。商人と職人が多く、周りの土地は穀物や綿を産するという。彼の記述は誇張や混乱もあるとされるが、ハウサの町がサハラの北にまで知られていたことを示す。ルムファが建てた王宮は、いまもカノの首長の宮殿として使われている。
産業があった。まず藍染めの布である。地面に深い穴を掘って藍と灰汁を溜め、布を何度も浸しては干す。カノの城門の近くの染め場は15世紀末から続くと伝えられ、今も職人が布を染めている。19世紀半ばにカノを訪れたドイツの探検家バルトは、この町の布がサハラの向こうまで、また西アフリカの広い範囲に出回っていると書いた。

革製品も名高かった。山羊の革をなめして赤や黄に染め、袋や履物、馬具に仕立てる。それがサハラを越えて北アフリカの港へ渡り、ヨーロッパでは「モロッコ革」の名で売られた。その多くは、実際にはハウサの地で作られたものだったとされる。
ハウサの諸都市は、一つの帝国にまとまらなかった。互いに競い、ときに戦い、周りの強国に貢ぎ物を納めもした。東のカネム=ボルヌ(カネム=ボルヌの隆盛)、西のソンガイ(アスキア・ムハンマドのソンガイ)の圧力を受け、ザザウでは16世紀に女王アミナが遠征を重ねたと伝えられる(アミナ女王のザザウ)。それでも、サハラ交易の南の端として塩と金、布と革、そして奴隷が行き来する町は、数百年にわたって続いた。

交易路は、カノから北へ、アガデスやガート、ガダーメスを経て地中海岸のトリポリへ延びていた。北からは塩、馬、武器、書物が来て、南からは布、革、コーラの実、そして人が運ばれた。ハウサの町は、奴隷を売る側にも、狩る側にも、使う側にも立っていた。その事実も、町の豊かさと切り離せない。
19世紀の初め、ゴビルから起こったウスマン・ダン・フォディオの聖戦が諸都市の王たちを倒し、ソコトのカリフ国(ソコト帝国の成立)のもとでカノは首長国の一つになった。1903年にはイギリス軍が城壁を破って町に入る。帝国にならなかった都市の連なりは、植民地の境界の中に組み込まれたが、市と染め場はその後も動き続けている。