ゲティスバーグの戦い
概要
南北戦争最大の激戦。ペンシルヴェニアに攻め込んだリーの南軍が3日間の戦いで敗れ、北部侵攻を断念した。
場所
39.83°N -77.23°E · アメリカ合衆国・ペンシルベニア州
関わった人(2)
ロバート・E・リーAD1807年1月19日–AD1870年10月12日 · 北ヴァージニア軍を率いて攻めたエイブラハム・リンカーンAD1809年2月12日–AD1865年4月15日 · 戦いの後に戦没者墓地で演説した本文
1863年5月、ロバート・E・リーの率いる南軍の北ヴァージニア軍は、ヴァージニアのチャンセラーズヴィルで倍近い北軍を破った。勢いに乗ったリーは、戦場となって荒れ果てたヴァージニアを離れ、二度目の北部侵攻に踏み切る。シェナンドア渓谷を北へ進み、ペンシルヴェニアのハリスバーグやフィラデルフィアまで脅かせば、北部の政治家たちが戦争をやめる気になるかもしれない、という狙いだった。南北戦争はこの年で3年目に入り、1月にはエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を出して、戦争の目的に奴隷制の廃止を加えていた。
北軍のポトマック軍は南軍を追ったが、リンカーンは司令官ジョゼフ・フッカーの動きに満足せず、戦いのわずか3日前にジョージ・ミードへ指揮を替えた。6月29日、北軍がポトマック川を渡ったと知ったリーは、ゲティスバーグの西13キロほどのキャッシュタウンに兵を集めるよう命じる。ゲティスバーグは小さな町だが、十本ほどの道が集まる交差点だった。

6月30日、A・P・ヒル軍団のヘンリー・ヘス師団から、ペティグルーの旅団がゲティスバーグへ向かった。ヘスは後の回想録で、町へ物資、とりわけ靴を探しに行かせたと書いている。長い行軍で靴をすり減らした南軍の兵にとって、靴は切実な品だった。「靴を探しに行ったら大会戦になった」という有名な話はこの回想に基づく。ただし町に靴の蓄えがあったという記録は見当たらず、後から付けた説明ではないかと見る研究者もいる。ペティグルーは町の南に北軍の騎兵が来ているのを見て、戦わずに引き返した。報告を受けたヒルとヘスは、相手はペンシルヴェニアの民兵にすぎないと考え、翌朝あらためて強行偵察を出すことにした。
7月1日の朝、ヘス師団の2個旅団がチェンバーズバーグ街道を東へ進むと、町の西の尾根にジョン・ビュフォードの騎兵師団が待ち構えていた。ビュフォードは地形を使って時間を稼ぎ、そのあいだに北軍の歩兵2個軍団が駆けつける。北軍のジョン・レイノルズ少将は戦闘の早い段階で撃たれて死んだ。リーは全軍がそろうまで本格的な戦いを避けるよう命じていたが、戦いは双方の増援を呑み込んで広がっていった。午後、南軍の2個軍団が北西と北から攻めると北軍の戦線は崩れ、兵は町の通りを抜けて南の墓地の丘へ退いた。

7月2日、北軍は町の南に釣り針の形をした陣を敷いた。夕方、リーは北軍の左翼に大攻撃をかけ、リトルラウンドトップ、麦畑、デビルズデン、桃園と呼ばれる場所で激しい戦いになった。北軍左端の丘リトルラウンドトップは、ストロング・ヴィンセント大佐の小さな旅団が繰り返しの突撃に耐えて守り抜いた。右翼のカルプスヒルと墓地の丘でも南軍の攻撃が本格化したが、北軍の陣は破れなかった。
7月3日、リーは北軍の中央を突く決断をした。長い砲撃が止んだ午後3時ごろ、1万500から1万2500の南軍の兵が尾根を出て、遮るもののない1キロ余りの野を墓地の稜線へ向かって進んだ。先頭に立った師団の名を取って「ピケットの突撃」と呼ばれる。北軍は側面の丘からの砲火と正面の銃火を浴びせ、突撃は撃退された。南軍の損害は甚大だった。
3日間の死傷者と行方不明者は、両軍合わせて4万6000から5万1000に達した。北軍は2万3055人、南軍は2万3000余りとも2万8000とも言われる。南北戦争で、またそれまでのアメリカの歴史で最も血の流れた戦いである。町は戦場となったが、記録に残る民間人の死者は一人で、台所でパンを焼いていた20歳のジニー・ウェイドが流れ弾に当たって死んだ。
7月4日、両軍は雨のなか睨み合い、同じ日、西部ではミシシッピ川の要衝ヴィックスバーグがグラントの軍に降伏した。リーはポトマック川を渡ってヴァージニアへ退き、ミードの追撃は徹底しなかった。リンカーンは南軍を取り逃がしたことに強い不満を抱いたと伝えられる。
11月19日、戦場の一角に設けられた戦没者墓地の献納式で、リンカーンは271語の短い演説をした。人民の、人民による、人民のための政治を地上から絶やさない、と結んだこの演説は、戦争の意味を言い直したものとして、アメリカで最もよく知られた演説の一つになった。
ゲティスバーグは、翌日のヴィックスバーグ陥落と合わせて戦争の転換点とされることが多い。リーが北部へ攻め込むことは二度となかった。もっとも当時は決定的な敗北とは受け止められておらず、戦争はなお2年近く続いた。戦略上の影響は限られていたとする研究者もいて、転換点という評価は後から作られた面もある。