できごと

ケープ植民地の設置

Cape Colony
AD1652年
重要度 4
ポルトガル帝国ネーデルラント連邦共和国マダガスカルルバ王国ルンダ王国コンゴ王国Rozwiメリナ王国(拡大期)コンゴポルトガル領東アフリカAD1652年ケープタウン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1652年の版図を描いています(10勢力)。

概要

オランダ東インド会社がアジア航路の補給地として置いた。入植者は定住し、コイサンの土地を取り、やがて内陸へ広がる。南アフリカの人口構成はここから始まる。

場所

ケープタウン
-33.92°N 18.42°E · 南アフリカ

本文

アフリカの南端を回る航路は、1488年にポルトガルのディアスが開き(喜望峰の回航)、ヴァスコ・ダ・ガマがインドまでつないだ(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。17世紀に入ると、その航路の主役はオランダ東インド会社になった(オランダ東インド会社の設立)。オランダからジャワのバタヴィアまでは、片道半年から8か月ほどかかる。途中で水と新鮮な食べ物を補えなければ、船乗りは壊血病で次々に倒れた。アフリカの南端は、そのちょうど中間にあたる。

1652年4月、会社の命を受けたヤン・ファン・リーベックが、3隻の船で南端の近くのテーブル湾に着いた。目的は植民地を作ることではなく、船に野菜と肉と水を補給する基地を置くことだった。最初の人数は100人足らずで、土で砦を築き、菜園を作った。のちに石造りの城塞が建てられ、いまもケープタウンの中心に残っている。

テーブル湾に上陸するヤン・ファン・リーベック
テーブル湾に上陸するヤン・ファン・リーベックWikimedia Commons Charles Davidson Bell · Public domain

この土地には、もともと人が住んでいた。牛や羊を飼って移動する牧畜民のコイコイと、狩猟採集民のサンである。両者を合わせてコイサンと呼ぶ。会社は彼らから家畜を買い取って肉を得ようとしたが、コイコイにとって家畜は財産そのものであり、思うようには集まらなかった。コイコイの女性クロトアは、砦で暮らして言葉を覚え、通訳として両者の間に立った。

補給を安定させるため、会社は1657年、契約の切れた社員の一部に土地を与えて自由市民とし、農業をさせた。これが入植の始まりになる。入植者がコイコイの放牧地を囲い込むと、まもなく衝突が起き、1659年には最初の戦争になった。ファン・リーベックは、入植地とコイコイの土地の境に苦いアーモンドの生け垣を植えさせた。その一部はいまもケープタウンの植物園に残っている。

ケープ植民地の版図(1885年)
ケープ植民地の版図(1885年)Wikimedia Commons Jj1984o · CC BY 4.0

働き手として、会社は奴隷を持ち込んだ。最初の奴隷船は1658年に着き、その後はマダガスカル、インド、セイロン、インドネシアの島々、のちにはモザンビークからも連れて来られた。18世紀の終わりには、植民地の奴隷の数は自由な入植者の数を上回るほどになった。1688年には、フランスで迫害を受けたプロテスタントのユグノーが200人ほど移り住み、ぶどう作りとワインの醸造を伝えた。

コイコイの社会は崩れていった。土地と家畜を失い、1713年には船から持ち込まれた天然痘が大流行して多くが死んだ。生き残った人々の多くは入植者の農場で働くことになり、内陸へ逃れた人々もいた。奴隷、コイコイ、入植者の間に生まれた人々と、その子孫は、のちにケープ・カラードと呼ばれるようになる。インドネシアから流された人々が持ち込んだイスラームも根づき、ケープのムスリムの共同体が生まれた。入植者のオランダ語は、こうした人々の言葉と混ざり合いながら変わっていき、のちのアフリカーンス語になった。

南アフリカの地形図
南アフリカの地形図Wikimedia Commons SFC9394 · CC BY 2.5

18世紀に入ると、トレックブールと呼ばれる半ば遊牧の入植者たちが、家畜を連れて内陸の奥へ広がっていった。会社の目の届かない辺境で、彼らは自分たちだけで暮らし、聖書と銃を頼りに生きた。1770年代の終わりには、東の辺境でバントゥー系の牧畜民コーサと出会い、土地をめぐる戦争が繰り返されるようになった。

ヨーロッパの戦争が、この地の持ち主を変えた。フランス革命戦争の中で、イギリスは1795年にケープを占領し、一度返還したのち、1806年に再び奪って、1814年に正式に自分の植民地にした。英語が公用語になり、1834年には奴隷制が廃止された。これに反発したオランダ系の農民たち(ボーア人)は、1830年代の半ばから牛車を連ねて内陸へ移り、自分たちの共和国を作った(グレート・トレック)。その先でズールー王国(ズールー王国の勃興)と衝突し、のちにはイギリスと戦うことになる(ボーア戦争)。

コサ戦争における小規模な戦闘
コサ戦争における小規模な戦闘Wikimedia Commons LUCAS, Thomas J. · Public domain

補給基地として置かれた小さな砦から、ヨーロッパ系、アフリカ系、アジア系の人々が入り混じる社会が生まれた。肌の色で人を分ける考え方は、のちに国の法律として制度になり、20世紀のアパルトヘイトに行き着く。それが終わるのは1994年のことである(アパルトヘイトの終結)。南アフリカの人口の構成と、その複雑な歴史は、1652年のテーブル湾から始まっている。

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