ケープ植民地の設置
概要
オランダ東インド会社がアジア航路の補給地として置いた。入植者は定住し、コイサンの土地を取り、やがて内陸へ広がる。南アフリカの人口構成はここから始まる。
場所
-33.92°N 18.42°E · 南アフリカ
本文
アフリカの南端を回る航路は、1488年にポルトガルのディアスが開き(喜望峰の回航)、ヴァスコ・ダ・ガマがインドまでつないだ(ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路)。17世紀に入ると、その航路の主役はオランダ東インド会社になった(オランダ東インド会社の設立)。オランダからジャワのバタヴィアまでは、片道半年から8か月ほどかかる。途中で水と新鮮な食べ物を補えなければ、船乗りは壊血病で次々に倒れた。アフリカの南端は、そのちょうど中間にあたる。
1652年4月、会社の命を受けたヤン・ファン・リーベックが、3隻の船で南端の近くのテーブル湾に着いた。目的は植民地を作ることではなく、船に野菜と肉と水を補給する基地を置くことだった。最初の人数は100人足らずで、土で砦を築き、菜園を作った。のちに石造りの城塞が建てられ、いまもケープタウンの中心に残っている。

この土地には、もともと人が住んでいた。牛や羊を飼って移動する牧畜民のコイコイと、狩猟採集民のサンである。両者を合わせてコイサンと呼ぶ。会社は彼らから家畜を買い取って肉を得ようとしたが、コイコイにとって家畜は財産そのものであり、思うようには集まらなかった。コイコイの女性クロトアは、砦で暮らして言葉を覚え、通訳として両者の間に立った。
補給を安定させるため、会社は1657年、契約の切れた社員の一部に土地を与えて自由市民とし、農業をさせた。これが入植の始まりになる。入植者がコイコイの放牧地を囲い込むと、まもなく衝突が起き、1659年には最初の戦争になった。ファン・リーベックは、入植地とコイコイの土地の境に苦いアーモンドの生け垣を植えさせた。その一部はいまもケープタウンの植物園に残っている。

働き手として、会社は奴隷を持ち込んだ。最初の奴隷船は1658年に着き、その後はマダガスカル、インド、セイロン、インドネシアの島々、のちにはモザンビークからも連れて来られた。18世紀の終わりには、植民地の奴隷の数は自由な入植者の数を上回るほどになった。1688年には、フランスで迫害を受けたプロテスタントのユグノーが200人ほど移り住み、ぶどう作りとワインの醸造を伝えた。
コイコイの社会は崩れていった。土地と家畜を失い、1713年には船から持ち込まれた天然痘が大流行して多くが死んだ。生き残った人々の多くは入植者の農場で働くことになり、内陸へ逃れた人々もいた。奴隷、コイコイ、入植者の間に生まれた人々と、その子孫は、のちにケープ・カラードと呼ばれるようになる。インドネシアから流された人々が持ち込んだイスラームも根づき、ケープのムスリムの共同体が生まれた。入植者のオランダ語は、こうした人々の言葉と混ざり合いながら変わっていき、のちのアフリカーンス語になった。

18世紀に入ると、トレックブールと呼ばれる半ば遊牧の入植者たちが、家畜を連れて内陸の奥へ広がっていった。会社の目の届かない辺境で、彼らは自分たちだけで暮らし、聖書と銃を頼りに生きた。1770年代の終わりには、東の辺境でバントゥー系の牧畜民コーサと出会い、土地をめぐる戦争が繰り返されるようになった。
ヨーロッパの戦争が、この地の持ち主を変えた。フランス革命戦争の中で、イギリスは1795年にケープを占領し、一度返還したのち、1806年に再び奪って、1814年に正式に自分の植民地にした。英語が公用語になり、1834年には奴隷制が廃止された。これに反発したオランダ系の農民たち(ボーア人)は、1830年代の半ばから牛車を連ねて内陸へ移り、自分たちの共和国を作った(グレート・トレック)。その先でズールー王国(ズールー王国の勃興)と衝突し、のちにはイギリスと戦うことになる(ボーア戦争)。

補給基地として置かれた小さな砦から、ヨーロッパ系、アフリカ系、アジア系の人々が入り混じる社会が生まれた。肌の色で人を分ける考え方は、のちに国の法律として制度になり、20世紀のアパルトヘイトに行き着く。それが終わるのは1994年のことである(アパルトヘイトの終結)。南アフリカの人口の構成と、その複雑な歴史は、1652年のテーブル湾から始まっている。