できごと

アスワン・ハイ・ダム

The Aswan High Dam
AD1970年7月21日
重要度 5
ソビエト連邦中国インドアルジェリアスーダンザイールポルトガル帝国サウジアラビアイランリビアチャドマリニジェールエチオピア帝国エジプトパキスタンモーリタニアトルコタンザニアナイジェリアフランスアフガニスタンスペインソマリア中央アフリカ共和国ケニアイラクポーランドモロッコカメルーンイタリアイエメンWest GermanyYugoslaviaルーマニアオマーンコンゴコートジボワール西サハラブルキナファソギニアガボンウガンダガーナシリアCzechoslovakiaチュニジアブルガリアギリシャハンガリーエリトリアオーストリアベナンアラブ首長国連邦ヨルダンリベリアAD1970年7月21日アスワン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1970年7月21日の版図を描いています(56勢力)。

概要

ナイルは毎年氾濫し、肥沃な泥を運んできた。エジプトの農業は五千年、それに依存していた。ナセルは、洪水を止め、通年の灌漑と発電を得るために、巨大なダムを構想した。英米が融資を降り、スエズ運河の国有化と戦争に至る。ソ連が引き受けた。湛水でヌビアの村々が沈み、十万人以上が移住させられ、アブ・シンベル神殿は切断して移された。泥が来なくなり、農地は化学肥料に、三角州は侵食に、そして住血吸虫は蔓延に向かった。

場所

アスワン
24.09°N 32.90°E · エジプト

関わった人(1)

ガマール・アブドゥル=ナセルAD1918年1月15日–AD1970年9月28日 · 進めた

本文

ナイル川は、毎年あふれた。夏、はるか南のエチオピア高原に大雨が降ると、そこから流れ出る青ナイルが増水し、7月から9月にかけてエジプトの谷を水が覆う。水が引いた後には、上流から運ばれてきた黒く肥えた泥が残る。エジプトの農業は、五千年にわたってこの繰り返しに頼ってきた。洪水の周期が暦を生み、税を決め、信仰を形づくった。川の水位を測る「ナイロメーター」の目盛りで、その年の収穫と税の額が見積もられた。

だが、この恵みには危うさもあった。水が多すぎれば村が流され、少なすぎれば飢饉になる。しかも洪水は年に一度しか来ないので、畑を使えるのも基本的に年に一度だった。一年を通して水を引ければ、二度、三度と収穫できる。洪水を手なずけたいという願いは古くからあり、1902年にはイギリスの手でアスワンに最初のダムが築かれ、1912年と1933年に二度かさ上げされた。それでも、川全体を支配するには遠く及ばなかった。

アスワン・ハイ・ダム
アスワン・ハイ・ダムWikimedia Commons NASA · Public domain

1952年、軍の若手将校たちがクーデターで王政を倒し、やがてガマール・アブドゥル=ナセルが国の指導者になった。新しいエジプトには、その象徴となる大事業が必要だった。それが、旧ダムの上流に、ナイルの流れそのものをせき止める巨大なダムを築く計画だった。洪水を止め、一年中畑に水を送り、大量の電気を起こす。

1955年、アメリカとイギリス、そして世界銀行は、ダムの建設に資金を出すと約束した。ところが1956年7月19日、アメリカは突然その約束を取り消した。ナセルがチェコスロヴァキアを通じてソ連圏から武器を買い、中華人民共和国を国として承認したことが、冷戦のさなかのアメリカを怒らせた。アメリカ議会には、エジプトの綿花と競り合うことを嫌う南部の議員たちの反対もあった。

エジプトのナセル大統領 (中)と、ソビエト連邦のフルシチョフ首相 (右)
エジプトのナセル大統領 (中)と、ソビエト連邦のフルシチョフ首相 (右)Wikimedia Commons Public domain

その一週間後の7月26日、ナセルはアレクサンドリアでの演説で、スエズ運河の国有化を宣言した。運河を作ったフランス人レセップスの名を演説の中で口にしたのが、待機していた部隊への合図だったと伝えられる。部隊はただちに運河会社の施設を押さえた。ダムの費用は、これから運河の通行料で賄う、とナセルは言った(運河の歴史はスエズ運河の開通に詳しい)。

10月、イギリスとフランスとイスラエルがエジプトに攻め込み、スエズ危機が起きた。だがアメリカとソ連がそろって撤兵を迫り、三国は兵を引いた。この出来事は、イギリスとフランスが世界を動かす帝国だった時代の終わりを示したとされ、ナセルはアラブ世界の英雄になった。そして1958年、ソ連が資金と技術者を出してダムを建設することが決まった。

スエズ危機に関わる図版:Port Said from air
スエズ危機Wikimedia Commons Fleet Air Arm official photographer · Public domain

工事は1960年に始まった。完成したダムは高さ111メートル、長さ3830メートルで、岩と土を積み上げて造る形式だった。積み上げた量はギザの大ピラミッドの17倍にあたると宣伝された。ダムの完成が宣言されたのは1970年7月21日で、その年の秋にナセルは急死し、翌1971年1月に正式な開所の式が行われた。

せき止められた水は、長さ550キロに及ぶ巨大な湖をつくり、ナセル湖と名づけられた。その南の部分はスーダンの領内にまで入り込んでいる。発電所の出力は210万キロワットで、完成した頃にはエジプトの電気のおよそ半分をまかない、それまで電気の無かった村々に明かりを届けた。

ダム湖の出現により水没予定の遺跡を、分解して移築。
ダム湖の出現により水没予定の遺跡を、分解して移築。Wikimedia Commons "Per-Olow" - Per-Olow Anderson (1921-1989) · Public domain

湖の底に沈んだものも多かった。エジプトの南部からスーダンの北部にかけては、独自の言葉と文化を持つヌビアの人々の村々があった。10万人を超える人々が、先祖の土地と墓と村を離れ、エジプト側ではコム・オンボの近く、スーダン側ではずっと東のカシュム・エル・ギルバへ移された。ヌビアの言葉と暮らしの多くは、その後急速に失われつつある。

古代の遺跡も水に呑まれようとしていた。ユネスコは国際的な救済の運動を呼びかけ(ユネスコの設立)、世界中から資金と技術者が集まった。最も名高いのが、ラムセス2世が岩山を掘って造らせたアブ・シンベル神殿の移設である。神殿は千を超える塊に切り分けられ、もとの場所より60メートルあまり高く、奥まった丘の上に、4年がかりで組み立て直された。

1963年、ダム建設を視察するガマール・アブドゥル・ナーセル
1963年、ダム建設を視察するガマール・アブドゥル・ナーセルWikimedia Commons Not credited · Public domain

年に二度、朝日が神殿の一番奥の神像まで差し込むという古代の設計の効果は、移設の後も保たれたが、その日付は一日ずれたと言われる。フィラエ島の神殿など、合わせて20を超える記念物が移された。この国際的な救済の取り組みは、1972年の世界遺産条約が生まれる直接のきっかけの一つになった(世界遺産条約)。それでも、調べられる前に沈んでしまった遺跡も数多い。

ダムがもたらしたものは大きかった。ナイルの洪水は来なくなり、大水の年には湖が水を受け止めた。1980年代、アフリカの東部を長い干ばつが襲い、エチオピアなどで大飢饉が起きたとき(エチオピア飢饉とライヴ・エイド)、エジプトは湖に蓄えた水でしのいだ。一年中水が引けるようになって、耕せる土地は広がり、同じ畑で年に何度も作物が取れるようになった。電気は工場と村を動かし、川の水位が安定したことで船の行き来も楽になった。

砂漠の中、ナイル川沿いの緑の灌漑地帯
砂漠の中、ナイル川沿いの緑の灌漑地帯Wikimedia Commons Public domain

しかし、失ったものもまた大きかった。何より、泥が来なくなった。上流から運ばれてくる大量の土砂は、ダムの湖の底にたまり、下流の畑には届かない。五千年の間、自然に肥えてきた土地は、化学肥料に頼るようになった。

その肥料を作る工場が、ダムの電気で動いているのは皮肉である。泥が来なければ、海辺の三角州も育たない。地中海の波が三角州の海岸を削り、年に何メートルも海岸線が後退している場所がある。海の水が地下にしみこみ、畑の土を傷めている。一年中水を引くようになったことで、排水が追いつかない畑には塩がたまった。

ナイル川の水収支を示す図
ナイル川の水収支を示す図Wikimedia Commons R.J.Oosterbaan at nl.wikipedia · Public domain

病気も広がった。住血吸虫という寄生虫は、流れのゆるやかな水路にすむ巻き貝を仲立ちにして人に感染する。一年中水をたたえた用水路は、その巻き貝にとって格好のすみかになった。一部の地域では住民の多くが感染したが、のちに大規模な投薬で感染の割合は大きく下がった。さらに、砂漠の強い日差しの下で、ナセル湖からは毎年100億立方メートルを超える水が蒸発していると見積もられている。蓄えた水の少なからぬ部分が、空へ消えている。

いま、ナイルの水をめぐる新しい争いが起きている。2011年、上流のエチオピアが、青ナイルに大エチオピア・ルネサンス・ダムと名づけた巨大なダムの建設を始めた。2020年には水をため始め、発電も始まった。エチオピアにとって、それは国の発展に欠かせない電気の源である。だが、水のほとんどを青ナイルに頼るエジプトにとって、上流で流れを握られることは国の存続に関わる。三つの国の話し合いは長く続いているが、決着はついていない。

ガマール・アブドゥル=ナセル(1969年)
ガマール・アブドゥル=ナセルWikimedia Commons Not credited · Public domain

アスワン・ハイ・ダムは、ナイルの洪水を止め、エジプトの暮らしを大きく変えた。だが、川を下流の一か所でせき止めても、川そのものを支配できるわけではない。そのことが、いま上流で起きていることによって明らかになっている。中国の三峡ダムをはじめ、20世紀から21世紀にかけて世界の大河に築かれてきた巨大なダムが、同じ得失の問いを抱えている。

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