概要
1980年にチトーが死ぬと、六つの共和国からなるユーゴスラヴィアを束ねる力は弱まった。セルビアのミロシェヴィッチが民族主義を煽って力を強めると、豊かな北の共和国は連邦を離れることを選ぶ。1991年6月25日、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言した。スロヴェニアでは連邦軍との戦いが10日で終わったが、セルビア人が多く住むクロアチアでは、町が包囲され、隣人どうしが殺し合う戦争になった。ユーゴスラヴィアの解体は、ヨーロッパで第二次世界大戦のあと最も血なまぐさい戦争の始まりだった。
場所
46.06°N 14.51°E · スロヴェニア
本文
第二次世界大戦の後のユーゴスラヴィアは、パルチザンの指導者チトーのもとで、六つの共和国と二つの自治州からなる連邦としてまとめられた。セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人、ボスニアのムスリム、マケドニア人、アルバニア人。「兄弟愛と団結」が合言葉だった。ソ連と距離を置き、西側からの借金と観光で、東欧の中では豊かな国だった。
1980年にチトーが死ぬと、連邦を束ねる力は弱まった。借金と物価の高騰で経済が崩れると、豊かな北のスロヴェニアとクロアチアは、自分たちの稼ぎが南の貧しい地域に回されることに不満を募らせた。セルビアでは、スロボダン・ミロシェヴィッチが、各地に散らばるセルビア人を守るという民族主義を掲げて権力を握る。1989年、コソヴォの戦いから600年の記念の日に、彼は数十万人の前で演説した(コソヴォの戦い)。
1990年、各共和国で複数の政党による選挙が行われ、民族主義の政党が勝った。1991年6月25日、スロヴェニアとクロアチアが独立を宣言した。スロヴェニアには、少数のセルビア人しか住んでいなかった。連邦軍との戦いは10日で終わり、連邦軍は引き揚げた。
クロアチアは違った。国の中に、セルビア人が多く住む地域があった。彼らは独立を拒み、連邦軍の後押しで自分たちの共和国を名乗る。ドナウ川沿いの町ヴコヴァルは三か月包囲されて廃墟となり、アドリア海の古都ドゥブロヴニクも砲撃された。住民を追い出して土地を一つの民族のものにする「民族浄化」という言葉が、ここから広まった。戦いは翌年、ボスニアに飛び火する(ボスニア紛争)。