概要
1992年春、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立を宣言すると、セルビア人の勢力は首都サラエヴォを囲む山々に砲と狙撃の兵を置いた。包囲は1425日続き、現代の戦争で最も長い首都の包囲になる。市民は、狙撃兵の通り道を走って水を汲み、パンの列に並んだところを砲撃された。1994年と1995年には市場への砲撃で多くの人が死ぬ。空港の下に掘ったトンネルが、外とつながるただ一つの道だった。死者は一万人を超え、子どもも多く含まれる。8年前に冬のオリンピックを開いた町だった。
場所
43.86°N 18.41°E · ボスニア・ヘルツェゴビナ
本文
サラエヴォは、オスマン帝国の時代から、モスクと正教会とカトリックの教会とユダヤ教の会堂が並ぶ町だった。ムスリムとセルビア人とクロアチア人が同じ建物に住み、結婚し合った。1984年には冬のオリンピックが開かれている。
1992年3月、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは住民投票を経て独立を宣言した。セルビア人の多くは投票を拒み、自分たちの共和国を作ると宣言する。4月5日、独立に反対する人々を含む平和の集会に狙撃が加えられ、戦争が始まった(ボスニア紛争)。セルビア人の勢力は、町を見下ろす山々に大砲と戦車と狙撃兵を並べ、町を囲んだ。
包囲は1996年2月29日まで、1425日続いた。電気もガスも水も止まり、市民は公園の木を切って燃やし、狙撃兵に見通される交差点を走って渡った。「狙撃兵通り」と呼ばれる大通りがある。国立図書館は砲撃で焼かれ、数百万冊の本と写本が失われた。1994年2月と1995年8月には、人の集まる市場に砲弾が落ち、それぞれ数十人が死んだ。
外への道は、国連が管理する空港の滑走路の下に掘った、長さ800メートルほどのトンネルだけだった。そこを通って、食べ物と武器と人が行き来した。人々は、それでも劇場で芝居を上演し、美人コンテストを開き、学校を続けた。1995年8月、二度目の市場の砲撃の後、NATOは本格的な空爆に踏み切り、包囲はデイトン合意で解かれる。包囲の間に一万人を超える人が死に、そのうち千数百人が子どもだった。包囲を指揮した将軍たちは、のちに国際法廷で裁かれた。