伊藤野枝
概要
『青鞜』を引き継ぎ、女性の自由と無政府主義を書いた。関東大震災の混乱のなか、大杉栄と甥とともに憲兵に殺された。28歳。
所属
日本関わったできごと(1)
『青鞜』の創刊AD1911年9月1日 · のちに編集を引き継ぐ本文
1895年1月21日、福岡県糸島郡今宿村(いまの福岡市西区)に生まれた。家はかつて瓦の問屋を営んだが、父の代には傾いていた。海辺の村で、泳ぎが得意な、気の強い少女だったという。高等小学校を出ると郵便局で働いたが、東京で暮らす叔父の家に出入りするいとこたちを見て、東京の学校へ行きたいと手紙を書き続け、叔父の援助で1910年、上野高等女学校に入った。

そこで英語を教えていたのが、のちに思想家として知られる辻潤だった。1912年、卒業した野枝は、親が決めた相手との結婚のために故郷へ戻された。だが嫁いでわずか数日で家を飛び出し、東京へ逃げ帰って辻のもとに身を寄せた。辻は教師の職を失ったが、二人は一緒に暮らし始めた。17歳だった。
同じ年、平塚らいてうが主宰する雑誌『青鞜』に加わった。『青鞜』の創刊は前年、女性だけの手で文芸誌として始まり、平塚らいてうの「元始、女性は太陽であった」の宣言で知られていた。野枝はそこで詩や評論を書き、旧い家と結婚の制度に縛られる女性の苦しみを、自分の体験から語った。1915年、らいてうから編集と発行を引き継いだ。20歳だった。

野枝のもとで、『青鞜』は文芸誌から、女性の生き方そのものを問う論争の場になった。女性の貞操とは何か。望まない妊娠をした女性に堕胎は許されるのか。国が認める遊郭を廃止すべきか。誌上で激しい論争が交わされ、堕胎を論じた号は発売禁止になった。アメリカの無政府主義者エマ・ゴールドマンの文章を訳して紹介したのも、この頃である。だが、雑誌の経営は苦しく、1916年、『青鞜』は休刊した。
その頃、野枝は無政府主義者の大杉栄と出会っていた。大逆事件で幸徳秋水らが処刑されたあと、国家の弾圧を受けながら活動を続けていた人物である。1916年、野枝は辻と二人の幼い子のうち次男を連れて家を出て、大杉のもとへ走った。大杉には妻と、もう一人、新聞記者の神近市子という恋人がいた。大杉は、互いに経済的に独立し、互いの自由を尊重する「自由恋愛」を唱えていたが、実際には野枝との関係が深まるにつれて、ほかの二人との関係は崩れていった。その年の11月、葉山の日蔭茶屋で、神近が大杉を刃物で刺す事件が起きた。世間は大杉と野枝を激しく非難した。

その後、野枝と大杉は並んで生きた。警察の尾行を受けながら、貧しい暮らしのなかで雑誌を出し、労働運動に関わり、文章を書いた。野枝は大杉とのあいだに5人の子を産んだ。辻とのあいだの2人と合わせて、7人の母になった。娘の一人には、エマ・ゴールドマンにちなんでエマと名付けている。社会の決まりや結婚の制度に従わない生き方を、野枝は書くことと暮らすことの両方で貫こうとした。
1923年9月1日、関東大震災が起きた。混乱のなかで、朝鮮人が暴動を起こすといった流言が広がり、多くの朝鮮人や中国人が自警団や軍に殺された(関東大震災と朝鮮人虐殺)。社会主義者や無政府主義者も、この機会に危険分子として狙われた。

9月16日、野枝と大杉は、大杉の妹の子で6歳の橘宗一を連れて出かけた帰り道、憲兵大尉の甘粕正彦らに連行された。三人は東京の憲兵隊の本部で殺され、遺体は古井戸に投げ込まれた。28歳だった。幼い子どもまで殺されたことは、新聞で報じられると大きな衝撃を与えた。
甘粕は軍法会議にかけられ、懲役10年の判決を受けたが、3年ほどで釈放された。のちに満州に渡り、満州国の要職に就いている。甘粕が本当に自分の判断で殺したのか、軍の上層の命令があったのかについては、いまも議論がある。

伊藤野枝の名は長いあいだ、スキャンダルの女性として語られることが多かった。だが近年、その文章が読み直され、女性の自由と、国家や家に縛られない生き方を、28年の短い生涯で書き続けた人として、改めて光が当てられている。