レイキャヴィーク会談

概要
核廃絶が現実の議題に上った。合意は成らなかったが、ここから軍縮が動きはじめる。
場所
64.15°N -21.94°E · アイスランド
関わった人(1)
ゴルバチョフAD1931年3月2日–AD2022年8月30日 · ソ連側本文
1980年代の前半、米ソの関係は冷え込んでいた。アメリカのロナルド・レーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と呼び、宇宙からの迎撃でソ連の核ミサイルを撃ち落とすという戦略防衛構想を打ち出した。ソ連はヨーロッパに中距離の核ミサイルを並べ、アメリカもそれに対抗して西ヨーロッパにミサイルを配備した。米ソ両国が持つ核弾頭は、合わせて数万発に達していた。
1985年、ソ連の共産党書記長にゴルバチョフが就いた。ゴルバチョフは、停滞したソ連の経済を立て直すには、軍事費の重荷を減らし、西側との緊張を和らげることが欠かせないと考えていた。その年の11月、ジュネーブでレーガンと初めて会い、核戦争に勝者は無く、決して戦ってはならないという声明を出した。翌1986年4月にはチェルノブイリ原発事故が起き、核の恐ろしさはゴルバチョフ自身にとっても身近なものになっていた。

1986年10月11日と12日、二人はアイスランドの首都レイキャヴィークで会った。会場は海辺に建つ白い木造の館、ヘフジ・ハウスである。もともとは次の本格的な首脳会談に向けた準備の会合という位置づけで、細かな議題も、事前の合意文書も用意されていなかった。
会談の直前には、モスクワでアメリカ人の記者ダニロフがスパイの疑いで逮捕され、それに先立ってニューヨークでソ連の国連職員が逮捕されていた。この件を互いの釈放で片づけた直後に、会談の日取りが決まった。両国の関係は、それほど不安定なところにあった。

ところが会談が始まると、ゴルバチョフは大胆な提案を次々に出した。戦略核兵器を半分に減らすこと、ヨーロッパの中距離核ミサイルを双方とも撤去することである。交渉は夜を徹して続き、2日目には、10年のうちに弾道ミサイルをすべて廃棄するという案まで話し合われた。レーガンが、すべての核兵器をなくしてもよいと口にしたと、同席した側近たちは伝えている。実務の担当者たちが想定していた範囲を、はるかに超えた話だった。
しかし最後に、交渉は一点でつまずいた。戦略防衛構想(SDI)である。ゴルバチョフは、全面的な削減の条件として、SDIの研究と試験を10年間は実験室の中に限るよう求めた。レーガンにとって、SDIは核兵器を無力にするための夢であり、譲ることはできなかった。互いに一歩も引かないまま、会談は物別れに終わった。館から出てきた二人の硬い表情は、写真に残っている。

会談の直後、多くの人はこれを失敗と受け止めた。アメリカの同盟国の中には、核の抑止を捨てかねない合意が寸前まで進んだことに、むしろ衝撃を受けた国もあった。
だが、レイキャヴィークで話し合われた中身は消えなかった。双方の指導者が、本気で核兵器を大幅に減らすつもりがあることを確かめ合ったからである。翌1987年12月、ゴルバチョフとレーガンはワシントンで中距離核戦力全廃条約に調印した。射程500から5500キロの地上発射のミサイルをすべて廃棄するという内容で、ある種類の核兵器を丸ごとなくす初めての条約になった。

条約に基づいて、1991年までに米ソ合わせて2600発あまりのミサイルが廃棄された。互いの基地に査察官を送り込み、廃棄の現場を確かめ合うという仕組みも、それまでの軍縮条約には無かったものだった。ヨーロッパの中距離ミサイルの撤去は、レイキャヴィークで話し合われたものだった。
さらに1991年には、戦略核兵器を大幅に減らす第一次戦略兵器削減条約(START I)が結ばれた。その間にベルリンの壁が崩れ(ベルリンの壁の崩壊)、1989年のマルタ会談で米ソの首脳は冷戦の終わりを確かめ合った。

のちにゴルバチョフもレーガンも、レイキャヴィークを振り返って、あの会談が転機だったと語っている。合意は無かったが、核兵器のない世界という目標が、空想ではなく首脳どうしの交渉の議題に一度は上った。準備の足りない会談だったからこそ、事務方の積み上げを飛び越えた話ができたとも言われる。ヘフジ・ハウスは、いまもレイキャヴィークの海辺に残っている。