できごと

プサメティコス1世のエジプト再統一

Psamtik I reunifies Egypt
BC664年
重要度 3
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概要

アッシリアの代官として据えられたサイスの侯が、ギリシアとカリアの傭兵を雇って他の侯を降し、アッシリアが弱ると独立した。第26王朝。ギリシアの傭兵に陣営の土地を与え、子供に鳥の言葉を実験させたとヘロドトスは書く。

場所

サイス
30.97°N 30.77°E · エジプト

関わった人(1)

プサメティコス1世?–BC610年 · 王

本文

紀元前8世紀の後半、エジプトは南のヌビアから来たクシュの王たちに治められていた(クシュ王国のエジプト支配)。第25王朝と呼ばれるこの王朝は、エジプトの神々を敬い、古い時代の様式を好んだが、北のナイル川のデルタでは、各地の町の侯たちが半ば独立して力を張り合っていた。そこへ、東から新しい力が迫った。メソポタミアのアッシリアである。

紀元前671年、アッシリアの王エサルハドンはエジプトに攻め込み、都メンフィスを落とした。クシュの王タハルカは南へ逃れた。アッシリアはデルタの町々の侯を、貢ぎ物を納める代官として据え直して引き揚げた。その中で最も有力だったのが、デルタの西の町サイスの侯ネコ1世である。だがタハルカと、その後を継いだタヌトアメンは、何度も北へ攻め返した。紀元前664年ごろ、ネコ1世はクシュの軍との戦いで命を落としたとされ、その子プサメティコスは、アッシリアのもとに逃れた。

アッシリアの新しい王アッシュルバニパル(ニネヴェの図書館)は大軍を送ってクシュの軍を追い、紀元前663年には南の都テーベを略奪した。神殿の宝は運び去られ、その知らせは遠くイスラエルの預言者の言葉にまで残っている。クシュの王たちは二度とエジプトに戻らなかった。プサメティコスは、アッシリアの後ろ盾でサイスの侯に据えられた。エジプトの歴史では、その治世の始まりを紀元前664年と数え、第26王朝、またはサイス朝と呼ぶ。

ニネヴェの図書館に関わる図版:Library of Ashurbanipal
ニネヴェの図書館Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

プサメティコスがどのようにほかの侯たちを従えたかを、ギリシアの歴史家ヘロドトスはこう伝える。デルタは12人の王に分けて治められていて、神殿の儀式で青銅の杯で神酒を注ぐ者がエジプト全土の王になる、という神託があった。ある祭りの日、神官の運んだ金の杯が一つ足りず、最後に並んだプサメティコスは、かぶっていた青銅の兜を脱いで杯のかわりにした。ほかの11人は神託を恐れて彼を沼地に追いやった。彼が新たに神託を求めると、海から青銅の男たちが現れるとき復讐はかなう、と告げられた。やがて、青銅の鎧をつけたイオニアとカリアの海賊が岸に上がった。プサメティコスは彼らを雇い、11人を倒したという。

この話そのものは物語だが、ギリシア人とカリア人の傭兵がプサメティコスの力の柱だったことは、ほかの記録からも裏づけられる。アッシュルバニパルの記録には、小アジアのリュディアの王ギュゲス(ギュゲスのリュディア)が、アッシリアに背いたエジプトの王に兵を送ったことが、苦々しく書かれている。エジプトの各地からは、ギリシア人の傭兵が残した品々や落書きも見つかっている。プサメティコスは、海の向こうの兵の力で、デルタの侯たちを一人ずつ従えていった。

ギュゲスのリュディアに関わる図版:Der Ring des Gyges (Ferrara 16 Jh)
ギュゲスのリュディアWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

南の上エジプトには、テーベを中心にアメン神の神官たちと、「アメンの神妻」と呼ばれる王家の女性が力を持っていた。紀元前656年、プサメティコスは娘のニトクリスを大船団に乗せてテーベへ送り、クシュの王家の出の神妻の養女とさせた。いずれニトクリスが神妻を継ぐ。血を流さずに、テーベの富と権威を自分の家に取り込んだのである。こうしてエジプトは、およそ百年ぶりに一人の王のもとにまとまった。

その間、アッシリアはバビロニアとエラムの反乱に追われていた。プサメティコスは、いつのまにかアッシリアへの貢ぎ物をやめ、独立した王としてふるまうようになった。アッシリアが兵を送って咎めることは無かった。アッシリアはやがて衰え、紀元前612年に都ニネヴェが落ちる(ニネヴェ陥落)。そのころには、エジプトはむしろアッシリアの残党を助けて、新しく興ったバビロニアに対抗する側に回っていた。

王の像の頭部(プサメティコス1世、メトロポリタン美術館)
王の像の頭部(プサメティコス1世、メトロポリタン美術館)Wikimedia Commons CC0

ヘロドトスによれば、プサメティコスはギリシア人の傭兵に、ナイル川の東の支流のほとりに陣営の土地を与え、エジプト人の子どもたちを預けてギリシア語を学ばせた。そこからエジプトで通訳を務める人々が生まれたという。ギリシア人の交易の町ナウクラティスも、考古学の調査では、この王朝の早い時期から営まれていたことが分かっている。エジプトは、地中海の世界に向けて扉を開いた。

国の中では、古い時代へ帰る動きが強まった。彫刻や浮き彫りは、二千年近く前の古王国や中王国の作品を手本にして作られ、古い文の書式も好んで使われた。外の世界に開く一方で、エジプトらしさのよりどころを、遠い昔に求めたのである。

巨像の引きあげ作業
巨像の引きあげ作業Wikimedia Commons Hamada Elrasam/VOA News · Public domain

プサメティコスは54年ほど国を治め、紀元前610年に亡くなった。跡を継いだ子のネコ2世は、ナイル川と紅海を結ぶ運河を掘り始め、パレスティナに兵を進めて、メギドでユダの王ヨシヤを討った(ヨシヤの改革)。だが紀元前605年、カルケミシュでバビロニアの王子ネブカドネザルに敗れ、アジアへの野心はくじかれた。サイス朝はこのあと百年あまり続き、紀元前525年、ペルシアに征服されて終わる。

ヘロドトスは、プサメティコスについて奇妙な話も書き残している(ヘロドトス『歴史』)。エジプト人は自分たちこそ世界で最も古い民だと信じていたが、王はそれを確かめるため、生まれたばかりの子ども二人を羊飼いに預け、誰も言葉をかけずに山羊の乳で育てさせた。2年たって、子どもたちが手を差し出して「ベコス」と言った。それがフリギアの言葉でパンを意味すると知った王は、フリギア人のほうが古いと認めたという。人が生まれつき話す言葉を確かめようとした、記録に残る最初の実験とされるが、実際に行われたかどうかは分からない。

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