クシュ王国のエジプト支配
概要
ナイル上流のクシュがエジプトを制し、第25王朝を開いた。アフリカ内陸の王国が古代地中海世界の主役になる。
場所
16.93°N 33.75°E · スーダン
関わった人(1)
タハルカ?–BC664年 · この王朝の最後の王本文
ナイル川を上流へさかのぼり、いくつもの急流(カタラクト)を越えた先に、クシュと呼ばれた土地がある。いまのスーダン北部で、ヌビアとも呼ばれる。紀元前8世紀、この南の王国が北上してエジプトを制し、第25王朝を開いた。
エジプトとクシュの関係は古い。新王国時代のエジプトはヌビアを征服し、金や象牙、兵を取り立てていた。第4急流の近くのゲベル・バルカルという岩山には、エジプト人がアメン神の聖地を置いた。ところが紀元前11世紀ごろから、エジプトは統一を失って分裂の時代に入る。北のデルタ地帯には小さな王や首長が並び立ち、南のクシュでは、エジプトの撤退後にナパタを中心とする王国が力をつけていた。

クシュの王たちは、エジプトの神アメンを熱心に信仰していた。彼らから見れば、分裂して互いに争うエジプトの支配者たちは、正しい秩序を失った者たちだった。王カシュタは上エジプトのテーベに影響を及ぼし、その子ピイ(ピアンキとも)が本格的に北へ兵を進めた。紀元前747年はピイの即位の年とされる伝統的な年代で、北への大遠征はそれより20年ほど後とも考えられているが、年代には諸説ある。
ピイはこの遠征の経過を、ゲベル・バルカルに立てた大きな石碑に書き残した。デルタの有力者テフナクトが南へ勢力を広げたのを討つ名目で、ヘルモポリスやメンフィスを次々と攻め落とした。降伏した王の厩舎を訪れたピイが、馬が飢えているのを見て激しく怒った、という場面まで書かれている。神殿に入る前には身を清め、敵の兵にも祭りの日には戦いを控えた、と石碑は信心深い王の姿を強調する。ピイはエジプトの王たちを服従させると、南のナパタへ帰った。

エジプトに腰を据えて支配したのは、その後を継いだシャバカである。デルタまでを確実に押さえ、都メンフィスで政務を執った。シャバカは古い神学の文書を石に刻み直させており、この「シャバカ石」はいま大英博物館にある。クシュの王たちは、エジプトの古い時代の様式を好んだ。彫像や浮彫は古王国や中王国の作風にならい、王の称号もエジプトの伝統に従った。彼らは侵入者としてではなく、エジプトの伝統を正しく受け継ぐ者として振る舞った。
王朝の最盛期の王がタハルカである。治世の初めにナイルの大増水があり、豊作をもたらしたことを記念の碑に残している。テーベのカルナック神殿やゲベル・バルカルで大きな建築を行い、故郷のヌリに、クシュの王として最初のピラミッドを築いた。ヘブライ語の聖書にも、ユダ王国を助けるためにアッシリアと戦った「クシュの王ティルハカ」として登場する(センナケリブのエルサレム包囲)。

この王朝にとっての脅威は、東の新アッシリア帝国だった。アッシリアはパレスチナまで勢力を広げ、その先のエジプトとぶつかる。紀元前671年、アッシリア王エサルハドンがメンフィスを落とし、タハルカは南へ逃れた(アッシリアのエジプト征服)。タハルカは一度は取り戻したが、次の王アッシュルバニパルの軍に再び追われる。その後を継いだタヌタマニも北へ攻め上ったが、紀元前663年ごろ、アッシリア軍がテーベを略奪し、クシュのエジプト支配は終わった。およそ60年から90年、数え方によって幅がある。エジプトは、アッシリアと結んだ北の勢力による第26王朝の時代に移る。
クシュの王国はそれで消えたわけではない。ナパタに退いた後も王たちはピラミッドを築き続け、紀元前6世紀には都を南のメロエへ移した(クシュのメロエ遷都)。メロエはその後も数百年栄え、鉄の生産で知られ、独自の文字も生まれた。ヌビアに残るピラミッドは200基を超え、エジプトより多い。どれも小ぶりで、傾斜が急である。

長いあいだ、この王朝は古代エジプト史の短い挿話として扱われ、黒人の王朝がエジプトを支配したことは十分に語られてこなかった。20世紀の後半から、スーダン側の発掘が進んで見方が変わってきた。2003年には、ケルマの近くでこの時代の王たちの石像がまとめて掘り出されている。アフリカの内陸の王国が、地中海世界の大国と肩を並べて戦った時期として、いま改めて注目されている。