人物

プサメティコス1世

Psamtik I
? – BC610年
エジプト新王国重要度 3

概要

アッシリアの代官として始まり、傭兵で他の代官を降し、54年統治した。ギリシア人を初めて大量にエジプトに入れた。二人の赤子を羊飼いに育てさせて最初の言葉を待ったら「ベコス」(フリギア語でパン)だった、とヘロドトス。

所属

エジプト新王国

関わったできごと(1)

プサメティコス1世のエジプト再統一BC664年 · 王

本文

プサメティコス1世は、エジプトの言葉ではプサムテクと呼ばれた。プサメティコスはギリシア人による呼び方である。名の意味ははっきりせず、エジプトの言葉ではなく、西の隣人リビアの人々の言葉に由来するという見方がある。彼の家は、ナイル川のデルタの西にある町サイスの侯の家で、何代か前にリビアから移り住み、エジプトに根づいた一族だったと考えられている。サイスは、機を織り、戦と狩りを司る女神ネイトを祀る町だった。生まれた年は分からない。

王の像の頭部(プサメティコス1世、メトロポリタン美術館)
王の像の頭部(プサメティコス1世、メトロポリタン美術館)Wikimedia Commons CC0

紀元前7世紀のはじめ、エジプトは南のヌビアから来たクシュの王たち(クシュ王国のエジプト支配)と、東から迫るアッシリアの争いの場になっていた。アッシリアは、クシュの王タハルカをエジプトから追い、デルタの町々の侯を、貢ぎ物を納める代官として据えた。プサメティコスの父ネコ1世もその一人だった。紀元前664年ごろ、ネコはクシュの軍との戦いで命を落としたとされ、若いプサメティコスはアッシリアに逃れた。アッシリアの王アッシュルバニパルの記録には、ネコの子にアッシリア風の名を与え、ある町の長に任じたことが書かれている。その子こそプサメティコスだと考えられている。

アッシリアの軍がクシュの勢力を南へ追い払うと、プサメティコスはサイスに戻り、アッシリアの後ろ盾を受けた侯として治め始めた。エジプトの歴史は、この紀元前664年を第26王朝の元年と数える。そこから彼が、ほかの侯たちを従え、上エジプトの都テーベにまで力を及ぼして、エジプトを一つにまとめていった(プサメティコス1世のエジプト再統一)。その力の柱は、海の向こうから来たギリシア人とカリア人の傭兵だった。アッシュルバニパルは、小アジアのリュディアの王ギュゲス(ギュゲスのリュディア)が、アッシリアに背いたエジプトの王に兵を送ったことを、恨みをこめて記録している。

ギュゲスのリュディアに関わる図版:Der Ring des Gyges (Ferrara 16 Jh)
ギュゲスのリュディアWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

プサメティコスは、アッシリアがバビロニアとエラムの反乱に手を焼いている間に、いつのまにか貢ぎ物をやめ、独立した王となった。誰も咎めには来なかった。彼が治めた54年は、エジプトの長い歴史の中でも最も長い治世の一つである。

彼は、ギリシア人を大がかりにエジプトに迎え入れた初めての王だった。ヘロドトスによれば、王は傭兵たちに、ナイル川の東の支流のほとりに陣営の土地を与えて住まわせ、エジプト人の子どもたちを預けてギリシア語を学ばせた。そこから、エジプト人とギリシア人の間を取り持つ通訳たちが生まれたという。メンフィスには、のちの時代、カリア人やギリシア人の子孫が住む地区があったことも知られている。ギリシア人の交易の町ナウクラティスも、この王朝の早い時期に、サイスからさほど遠くないナイル川の支流のほとりで営まれ始めた。エジプトはそれまで、外国人が国の中に住みつくことをあまり許してこなかった。プサメティコスは、外の世界に向けて扉を開いた王だった。

巨像の引きあげ作業
巨像の引きあげ作業Wikimedia Commons Hamada Elrasam/VOA News · Public domain

一方で、彼の時代のエジプトの美術は、過去に目を向けた。彫刻や浮き彫りは、二千年近く前のピラミッドの時代の古王国や、中王国の作品を手本にして作られ、古い称号や書式が好んで使われた。外国人の兵を頼り、外国人の商人を迎え入れる王が、エジプトらしさのよりどころを、遠い昔の栄光に求めたのである。古い墓や神殿の碑文を写し取って手本にする作業は、エジプト人が自分たちの過去を意識的に調べた試みだったと言う人もいる。

王の目は、北東のアジアにも向いていた。ヘロドトスは、プサメティコスがパレスティナの海辺の町アシュドドを29年にわたって囲み、ついに落としたと書いている。知られる限り最も長い包囲だというが、数字には誇張があるかもしれない。また、北の草原から騎馬の民スキタイ(スキタイの騎馬遊牧)がパレスティナまで押し寄せたとき、プサメティコスは自ら出向いて贈り物を差し出し、懇願してエジプトに入る前に引き返させた、ともヘロドトスは伝える。治世の終わりごろには、かつての主人アッシリアが新バビロニアとメディアに追いつめられると、エジプトはアッシリアを助けて兵をメソポタミアの方面まで送った。東の大国が一つになるより、弱ったアッシリアを残しておくほうがエジプトに都合がよかったからだろう。

アシュドド攻略時のプサメティコス1世(1900年の挿絵)
アシュドド攻略時のプサメティコス1世(1900年の挿絵)Wikimedia Commons Patrick Gray · CC BY 2.0

紀元前610年、プサメティコスは亡くなった。ヘロドトスは、サイスの王たちがネイト女神の神殿の境内に葬られたと書いているが、その墓はまだ見つかっていない。跡を継いだ子のネコ2世は、ナイル川と紅海を結ぶ運河を掘り始め、パレスティナに攻め上った。サイス朝はその後もギリシア人の傭兵と商人に支えられて栄えたが、紀元前525年、ペルシアに征服されて終わる。

プサメティコスの名を、意外な形で後世に残したのは、ヘロドトスの伝える一つの話である(ヘロドトス『歴史』)。エジプト人は、自分たちこそ世界で最も古い民だと信じていた。王はそれを確かめようと、生まれたばかりの二人の子どもを羊飼いに預け、誰も言葉をかけずに山羊の乳で育てさせた。2年後、子どもたちは手を差し伸べて「ベコス」と言った。それがフリギアの言葉でパンを意味すると知った王は、フリギア人が最も古く、エジプト人はその次だと認めた。ヘロドトスはこれを、メンフィスの神官から聞いたと書き、ギリシア人の間には、子を育てたのは舌を切られた女たちだったという、もっとむごい話も伝わっていると付け加えている。

ヘロドトス『歴史』に関わる図版:POxy v0017 n2099 a 01 hires
ヘロドトス『歴史』Wikimedia Commons Unknown · Public domain

この話が本当にあったことかどうかは分からない。だが、人が生まれつき話す言葉は何かを確かめようとする試みは、その後も繰り返し語られた。13世紀のイタリアの修道士は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が、乳母たちに話しかけることを禁じて子どもたちを育てさせ、ヘブライ語を話すのか、ギリシア語か、ラテン語か、アラビア語かを確かめようとしたが、子どもたちはみな死んでしまった、と書いている。言葉と人の心の始まりを問う、古くて新しい問いの、最も古い記録の一つが、このサイスの王の名とともに残っているのである。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC610年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →