できごと

クヌートの北海帝国

North Sea Empire
AD1016年
重要度 4
デンマーク=ノルウェーフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民キエフ・ルーシブワイフ朝キエフ・ルーシペチェネグファーティマ朝サーミ東ローマ帝国神聖ローマ帝国ヴォルガ・ブルガール後ウマイヤ朝ポーランドMagyarsハザールKareliansハンガリー王国第一次ブルガリア帝国スウェーデンIcelandic Commonwealthバルトの諸部族アルメニアEnglandSuomiケルト系の諸王国Leónアランブルゴーニュジョージア王国スコットランドPrussiansフランス王国PomeraniaAD1016年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1016年の版図を描いています(33勢力)。

概要

デンマーク王の息子がイングランドを征服し、デンマークとノルウェーも継いで、北海を囲む帝国を作った。19年で消えた。「波よ戻れ」と命じて濡れた話は、王の力の限界を見せるためだったと伝わる。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(1)

クヌートAD990年頃–AD1035年11月12日 · 王

本文

10世紀の終わりから、イングランドは再びデンマークのヴァイキングの襲撃にさらされていた。王エゼルレッド2世は、襲撃をやめさせるために巨額の銀(デーンゲルド)を払い続けたが、効き目は続かなかった。1013年、デンマーク王スヴェン1世(双叉髭王)がみずから大軍を率いて上陸し、エゼルレッドをノルマンディーへ追ってイングランドを征服した(スヴェンのイングランド征服)。その遠征に、まだ若い次男のクヌートが加わっていた。

ところが翌1014年2月、スヴェンは急死する。イングランドの有力者たちは、亡命していたエゼルレッドを呼び戻した。足場を失ったクヌートは退却を決め、デンマークへ帰る途中、南東部のサンドウィッチの浜に、父が取っていた人質たちを手と耳と鼻を切り落として置き去りにしたと、イングランドの年代記は記している。

クヌートの版図(1014〜1035年)
クヌートの版図(1014〜1035年)Wikimedia Commons Velhagen & Klasing (V & K) · Public domain

1015年、クヌートは大船団を率いて戻ってきた。翌1016年4月にエゼルレッドが死ぬと、その息子エドマンド剛勇王が抵抗を続けた。二人はこの年、何度も戦った。10月、エセックスのアッシンドンでクヌートが大勝し、二人は王国を分け合うことで和を結んだ。エドマンドがウェセックスを、クヌートがその他の地を治める。しかし11月30日、エドマンドが死んだ。病死とも暗殺とも言われる。クヌートはイングランド全土の王となった。

王位を固めるため、クヌートは1017年、エゼルレッドの寡婦エマを妃に迎えた。エマはノルマンディー公の妹で、前の王の妃と結婚することで、新しい王は古い王家の後を継ぐ形を整えた。エマとエゼルレッドの間の息子たちはノルマンディーで育つことになる。その一人が、のちのエドワード懺悔王である。

1018年ごろ、デンマーク王だった兄が死に、クヌートはデンマークの王位も継いだ。さらに1028年、ノルウェーに攻め入って王オーラフ・ハラルドソン(のちのオーラフ2世(聖オーラフ))を追い出し、ノルウェーの王も兼ねた。1030年、オーラフは王位を取り戻そうと戻ってきたが、スティクレスタッドの戦いで戦死した。クヌートの支配はスウェーデンの一部にも及んだとされる。北海をぐるりと囲む三つの王国を、一人の王が治めることになった。これを後世、北海帝国と呼ぶ。

スティクレスタッドの戦いに関わる図版:Arbo-Olav den helliges fall i slaget på Stiklestad (cropped)
スティクレスタッドの戦いWikimedia Commons Peter Nicolai Arbo · Public domain

イングランドの治め方は、意外なほど穏やかだった。クヌートは征服の直後こそ有力者を処刑し、重い税を取ってデンマークの軍の費用にあてたが、その後はイングランドの法と慣習を守ることを約束し、かつての名君エドガーの時代の法を受け継ぐと宣言した。法の文案を練ったのは、ヨークの大司教ウルフスタンだったとされる。イングランドの貴族を取り立て、その中からウェセックス伯ゴドウィンが頭角を現した。教会にも惜しみなく寄進し、かつてヴァイキングが荒らした修道院を手厚く保護した。外から来た征服者は、キリスト教の王としてふるまうことで、王国に受け入れられようとした。

1027年、クヌートはローマへ旅し、神聖ローマ皇帝コンラート2世の戴冠式に列席した。そのとき書いたイングランドの人々への手紙が残っている。教皇と皇帝と諸侯に、イングランドとデンマークの巡礼者や商人が、アルプスを越える道で不当な通行税を取られないよう求め、約束を得た、とクヌートは誇らしげに伝えている。北の海の征服者が、ヨーロッパのキリスト教世界の一員として認められたことを示す場面だった。

デーンロウ(黄色の領域)
デーンロウ(黄色の領域)Wikimedia Commons Public domain

クヌートには有名な逸話がある。12世紀の年代記作者ハンティンドンのヘンリーが書いたもので、王は廷臣たちが「陛下は海さえ従わせる」とへつらうのを聞いて、玉座を浜辺に置かせ、満ちてくる潮に「私の足を濡らすな」と命じた。波はかまわず王の足を濡らした。王は、地上の王の力などむなしい、天と地と海が従うのは神ただ一人だ、と言い、以後二度と王冠をかぶらなかったという。この話は本来、王の謙虚さを示すものとして語られていた。ところが近代になると、思い上がって自然に逆らう愚かな王のたとえとして、逆の意味で使われることが多くなった。もっとも、話そのものが王の死から100年ほど後に書かれたもので、実際にあったことかどうかは分からない。

1035年11月、クヌートはイングランド南部のシャフツベリーで死に、ウィンチェスターに葬られた。まだ40歳前後だった。帝国はすぐにほどけ始める。ノルウェーはオーラフの息子マグヌスが取り戻し、イングランドでは息子のハロルド兎足王が、デンマークでは同じく息子のハーデクヌーズが王となった。ハロルドは1040年に、ハーデクヌーズも1042年に死に、クヌートの血筋はイングランドの王位から絶えた。ノルマンディーで育ったエドワード懺悔王が帰国して王となった。

クヌート大王の肖像
クヌート大王の肖像Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

北海帝国は、一人の王の力で一代だけ成り立った帝国だった。だがその残した糸は、24年後の1066年に一斉に引かれる。北海帝国の継承を口実にノルウェー王ハラルド苛烈王が攻め込み、クヌートに取り立てられたゴドウィンの息子ハロルドがそれをスタムフォード・ブリッジの戦いで迎え撃ち、エマの実家の一族であるノルマンディー公ギヨームが海を渡ってヘイスティングズの戦いに勝った。1066年のイングランドをめぐる争いは、クヌートの帝国が残した三つの流れがぶつかり合ったものだった。

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