第2ラテラン公会議
概要
教皇インノケンティウス2世がローマのラテラノ宮殿に開いた公会議。教会の分裂の後始末とともに、キリスト教徒どうしの戦いで弩と弓を使うことを禁じた。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
本文
1139年4月、ローマのラテラノ宮殿に、ヨーロッパ各地からおよそ千人の聖職者が集まった。教皇インノケンティウス2世が招いた、のちに第2ラテラン公会議と呼ばれる会議である。カトリック教会が数える10番目の公会議にあたる。会議が定めた多くの決まりの中に、キリスト教徒に対して弩(クロスボウ)と弓を使ってはならない、という一条があった。武器の使用を教会が禁じた早い例として知られている。
会議の目的は、それまでの教会の分裂の後始末だった。1130年に教皇ホノリウス2世が死ぬと、同じ日に二人の教皇が選ばれた。枢機卿の多数とローマ市民に推されたアナクレトゥス2世と、ホノリウスが生前に選挙人として指名していた少数の枢機卿が選んだインノケンティウス2世である。インノケンティウスはローマを追われたが、クレルヴォーのベルナルドゥスの支持を得て、フランスや神聖ローマ帝国の諸侯を味方につけた。一方、アナクレトゥスは南イタリアのルッジェーロ2世に王の位を認め、その後ろ盾を得ていた(ルッジェーロ2世のシチリア王国)。

1138年にアナクレトゥスが死ぬと、対立はほぼ解けた。インノケンティウスは、勝った側の権威を示し、教会をまとめ直すために公会議を開いた。開会にあたって、アナクレトゥスとその支持者が叙階した聖職者をすべて退けた。ルッジェーロ2世は破門され、教会の改革を説いたブレシアのアルナルドは職を解かれてイタリアから追放された。ペトルス・ブルイスらの教えも異端として退けられた。
会議はさらに、緩んだと見なされた教会の規律を正すため、30ほどの決まりを定めた。司祭や修道士の結婚と内縁を禁じ、聖職者に派手な服を慎ませ、俗人から聖職禄を受けることを禁じた。戦いを休む期間を定めた神の休戦の決まりを改めて確かめ、命を危うくする馬上槍試合を禁じて、死んだ者にはキリスト教の埋葬を許さないとした。
そのうちの第29条が、弩と弓の禁止である。死をもたらし神に憎まれる弩兵と射手の技を、今後キリスト教徒とカトリック信徒に向けて使うことを、破門をもって禁じる、という内容だった。弩は引き金で矢を放つ機械仕掛けの弓で、長い修行を積まなくても扱え、騎士の鎧を貫くことができた。身分の低い兵が貴い騎士を遠くから倒せる武器は、騎士の社会の秩序を揺るがすものと見られていた。
ただし、禁じられたのはキリスト教徒に向けて使うことで、異教徒との戦いは対象外だった。十字軍の呼びかけ以来続いていた十字軍では、弩はむしろ重宝された。そしてキリスト教徒どうしの戦いでも、この禁令はほとんど守られなかった。イングランド王のリチャード1世(獅子心王)は弩を好んで使い、1199年、フランスの城を囲んでいたときに、自らも弩の矢を受けて死んだ。14世紀のクレシーの戦いでは、フランス軍がジェノヴァの弩兵を雇って戦場に並べている。

会議の後も、インノケンティウスとルッジェーロの争いは続いた。教皇は自ら兵を率いて南イタリアへ向かったが、1139年の夏、ルッジェーロの軍に捕らえられ、彼をシチリア王と認めることを余儀なくされた。公会議で示した威信は、戦場ではすぐに試されたことになる。
ラテラノ宮殿で公会議が開かれたのは、これが2度目だった。1度目は1123年で、前年のヴォルムス協約で、司教を任命する権利をめぐる皇帝と教皇の長い争いに区切りがついたことを受けて開かれた。カノッサの屈辱に象徴されるこの争いを経て、教皇は西ヨーロッパの教会を束ねる力を強めていた。ラテラノ宮殿は、14世紀に教皇がフランスのアヴィニョンへ移るまで(教皇のアヴィニョン捕囚)、教皇の住まいであり続け、その後もラテラノでは、1179年と1215年にも公会議が開かれた。

第2ラテラン公会議の決まりの多くは、それ以前の会議の決定を繰り返したものだった。それでも、聖職者の結婚の禁止をはっきりさせたことは、のちのカトリック教会の聖職者のあり方を形づくった。弩の禁止は守られなかったが、武器の使い方を宗教や法で縛ろうとする試みとして、のちの戦時国際法の遠い先駆けとして語られることもある。