ドリュラエウムの戦い
概要
第1回十字軍の先発隊がルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーンに奇襲され、後続の到着で逆転した野戦。
場所
39.78°N 30.52°E · トルコ・エスキシェヒル県
本文
ドリュラエウムの戦いは、1097年7月1日、小アジア(アナトリア)の内陸で第1回十字軍とトルコ人の軍がぶつかった戦いである。十字軍が東方で初めて経験した本格的な野戦で、先に進んでいた一隊は全滅しかけたが、後ろから仲間が駆けつけて形勢がひっくり返った。この勝利で、十字軍はアナトリアを横切ってシリアへ進む道を開いた。
始まりは1095年の十字軍の呼びかけである。ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスがトルコ人に奪われた小アジアの回復のために西方へ援軍を求め、教皇ウルバヌス2世がそれを聖地への武装巡礼の呼びかけに変えた。翌年から諸侯の軍が次々にコンスタンティノープルに集まり、1097年春に海峡を渡った。最初の目標は、ルーム・セルジューク朝の都になっていたニカイアである。十字軍は5月から包囲したが、6月、町はビザンツ軍とひそかに話をつけて降伏し、ビザンツの旗が掲げられた。略奪を期待していた十字軍の兵には不満が残り、皇帝への不信が深まった。

6月26日にニカイアを発った十字軍は、補給を楽にするため二つに分かれて進んだ。前を行くのは南イタリアのノルマン人ボエモンと甥のタンクレード、ノルマンディー公ロベールらの隊で、ビザンツの将タティキオスが案内についた。少し遅れて、ブイヨンのゴドフロワ、トゥールーズ伯レーモン、ヴェルマンドワ伯ユーグらの本隊が続いた。ボエモンの隊は戦える者がおよそ1万で、多くは徒歩だったと見られ、非戦闘員の巡礼者も大勢連れていた。
ルーム・セルジューク朝のスルタン、クルチ・アルスラーン1世は、ニカイアを失った痛手を取り返そうとしていた。彼はダニシュメンド朝のガーズィーと手を組み、騎馬の弓兵を中心にした軍を集めた。年代記には15万、36万といった数が書かれているが、現代の研究者は6000から7000ほどの騎兵と見ている。
6月30日の夕方、ボエモンの隊は廃墟になっていたドリュラエウム(いまのエスキシェヒルの近く)の川のほとりに野営した。翌7月1日の夜明け、トルコ軍が襲いかかった。騎馬の弓兵は駆け寄って矢を浴びせ、反撃が来る前に引くという戦い方をくり返した。重い鎧の騎士はなかなか倒れなかったが、馬と鎧の無い歩兵、巡礼者が次々に射られた。ボエモンは騎士を馬から降ろして防御の列を作らせ、歩兵と非戦闘員を陣の中央に集め、伝令を本隊へ走らせた。女たちは戦いのあいだ水を運び続けたと伝えられる。命令に背いて飛び出した騎士の小隊は、引いては射るトルコの騎兵に討たれた。十字軍は湿った川岸へと押し込まれ、何時間も持ちこたえた。
昼を過ぎて、ゴドフロワが50騎ほどを率いて包囲を破り、合流した。そのあとレーモンやユーグの騎士たちも次々に到着し、十字軍は左右と中央に陣を組み直して反撃に出た。最後に戦いを決めたのは、教皇の代理として従軍していたル・ピュイ司教アデマールの隊である。丘の陰を回り込んでトルコ軍の背後に出て、その陣営を襲った。陣が燃えるのを見たトルコ軍は総崩れになり、クルチ・アルスラーンは財宝を残して退いた。損害は十字軍4000、トルコ軍3000とする記録があるが、確かな数は分からない。
勝った十字軍はスルタンの財宝を手にし、その後アナトリアをほとんど妨げられずに進んだ。ただし夏の高原の行軍は厳しく、多くの馬と人が渇きと飢えで倒れた。10月、彼らはシリアのアンティオキアに着いて包囲を始め、1099年には第1回十字軍のエルサレム占領に至る。皇帝アレクシオスの側はこの間にエーゲ海沿岸の町々を取り戻した。十字軍の側の年代記『フランク人の事績』は、この戦いのトルコ兵の勇敢さを称え、彼らがキリスト教徒であったなら最もすぐれた民であったろうと書いている。トルコ側にとっては、西から来た重装の騎士の手ごわさを初めて思い知らされた戦いであり、その後の長い対立の始まりだった(物語「『アラブが見た十字軍』で読む十字軍」)。