アンティオキアの戦い
概要
第一回十字軍が奪ったアンティオキアで逆に包囲され、聖槍の発見で奮い立ってケルボガの大軍を破った戦い。
場所
36.20°N 36.16°E · トルコ・ハタイ県
本文
1095年、教皇ウルバヌス2世の十字軍の呼びかけに応えて、西欧の諸侯と民衆は東へ向かった。第一回十字軍である。1097年、十字軍はビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスの助けを受けて小アジアに渡り、ルーム・セルジューク朝の都ニカイアを落とし、ドリュラエウムで勝って、夏の暑さの中アナトリアを横断した。シリアに入って最初に立ちはだかったのが、アンティオキアである。
アンティオキアはオロンテス川のほとりにある古い大都市で、6世紀のユスティニアヌス帝の時代の城壁に囲まれ、塔は400を数えた。南のシルピオス山の上には城塞がそびえていた。当時はセルジューク朝に属し、総督ヤギ・シヤンが守っていた。正面から攻め落とせる町ではなく、十字軍は1097年10月21日から包囲を始めた。

包囲は長引いた。冬になると周りの食糧は取り尽くされ、十字軍は飢えに苦しんだ。馬は700頭ほどにまで減り、逃げ出す者も相次いだ。12月末にはダマスカスのドゥカクが、翌1098年2月にはアレッポのリドワーンが救援の軍を差し向けたが、十字軍はどちらも退けた。
5月末、モスルのアタベク・ケルボガが、ドゥカクやリドワーンも加えたはるかに大きな軍を率いて近づいてきた。その前に町を落とさなければ、十字軍は城壁とケルボガ軍に挟まれる。南イタリアのノルマン人ボエモンは、城内で塔の一つを守るアルメニア人フィールーズとひそかに通じていた。6月2日の夜、ボエモンの兵はフィールーズの手引きで塔に登り、翌3日、十字軍は町になだれ込んだ。ただ、山上の城塞だけはトルコ兵が守り続けた。

6月7日、ケルボガの軍が着き、今度は十字軍が町の中に閉じ込められた。町に食糧の蓄えはなく、飢えは前よりひどくなった。陥落の前日に逃げ出していたブロワ伯エティエンヌは、救援に向かっていたアレクシオス1世に、もう望みはないと伝えた。皇帝は兵を引き返させた。
そのとき、南フランスから来たピエール・バルテルミーという男が、使徒アンデレが夢に現れ、キリストのわき腹を刺した聖なる槍が町の中に埋まっていると告げた、と言い出した。教皇の使節アデマールは、コンスタンティノープルで聖槍とされる遺物を見ていたので疑った。だがトゥールーズ伯レーモンは信じた。6月15日、聖ペトロ大聖堂の床を掘っても何も出ず、ピエール自身が穴に下りて槍の穂先を取り出した。
この槍が本物かどうかは、当時から疑われていた。それでも、飢えて沈んでいた兵の心を奮い立たせたことは確かである。一方のケルボガ軍では、諸侯の足並みがそろっていなかった。ケルボガがシリアを手に入れようとしていると疑う者が多く、十字軍よりもケルボガを恐れる者さえいた。6月27日、隠者ピエールが和平の使者として送られたが、話はまとまらなかった。
6月28日、十字軍は城門を出た。ボエモンは兵を6つの隊に分け、ゴドフロワ・ド・ブイヨンやノルマンディー公ロベール、タンクレードらがそれぞれを率いた。病に伏したレーモンは城内に残り、山上の城塞を見張った。槍は隊の前に掲げられた。ケルボガはすぐには攻めず、まとめて叩くつもりで十字軍が出そろうのを待ったとされる。矢を浴び、草に火を放たれても十字軍は進み、聖ゲオルギオスら聖人が共に馬を駆る姿を見たと伝えられる。やがてドゥカクらが戦場を離れ、ケルボガの軍は総崩れになった。城塞の兵も降伏した。
勝利の後、十字軍の中で争いが起きた。ボエモンは町を自分のものにしようとし、皇帝に返すべきだとするアデマールやレーモンと対立した。8月1日、アデマールは疫病で亡くなった。結局ボエモンが残ってアンティオキア公国を開き、残りの軍は1099年の初めに南へ進んで、7月にエルサレムを占領した(第1回十字軍のエルサレム占領)。その途中にはマアッラの虐殺も起きている。

聖槍を掘り出したピエール・バルテルミーは、のちに嘘つきだと責められ、身の潔白を示すため1099年4月に炎の間を歩く神明裁判を受けた。ひどいやけどを負い、12日後に死んだ。アンティオキアの戦いはまもなく伝説となり、12世紀には武勲詩『アンティオキアの歌』にうたわれた。