人物

ヌルシアのベネディクトゥス

Benedict of Nursia
AD480年頃 – AD547年頃(享年67・推定)
東ゴート王国重要度 3

概要

「祈り、かつ働け」。修道院の暮らし方を定めた戒律が、西ヨーロッパ中に広まる。

所属

東ゴート王国

関わったできごと(1)

ベネディクトの戒律AD529年頃 · 当人

本文

ベネディクトゥスの生涯を伝える史料は、ほぼ一つしかない。死の半世紀ほどのち、教皇グレゴリウス1世(グレゴリウス1世の即位)が書いた『対話』の第2巻である。弟子たちから聞いた話をまとめたもので、奇跡の物語に満ちている。生年も没年も、この書から逆算した推定にすぎない。以下の話も、多くは伝えられたこととして読む必要がある。

フラ・アンジェリコ画の聖ベネディクトゥス
フラ・アンジェリコ画の聖ベネディクトゥスWikimedia Commons Fra Angelico · Public domain

480年ごろ、イタリア中部の山間の町ヌルシア(いまのノルチャ)の、裕福な家に生まれた。西ローマ帝国の最後の皇帝が退位させられて数年後で、イタリアはやがて東ゴートの王テオドリックの支配に入る(東ゴート王国)。少年のころローマへ学問に出されたが、学生仲間の放埒な暮らしを嫌って学業を捨て、町を出た。

ローマの東、スビアコの山の洞窟に、ベネディクトゥスは一人でこもった。3年のあいだ、近くの修道士ロマヌスが綱で下ろすパンだけで暮らしたと伝わる。隠者の評判が広まり、近くのヴィコヴァーロの修道院から院長になってほしいと頼まれた。引き受けると、規律の厳しさに耐えかねた修道士たちが、ぶどう酒に毒を入れた。ベネディクトゥスが杯に十字を切ると、杯は石を投げつけられたように砕けた、と『対話』は書く。彼は修道士たちを残して洞窟へ戻った。やがて慕って集まった者たちのために、スビアコに12の小さな修道院を建て、それぞれに12人の修道士を置いた。

529年ごろとされるが、ベネディクトゥスはスビアコを離れ、ローマとナポリのあいだのモンテ・カッシーノの山へ移った。山上には古いアポロンの神殿が残り、近くの農民がまだ拝んでいた。彼はそれを壊し、聖マルティヌスと洗礼者ヨハネの礼拝堂を建てた。ここで書いたのが、のちにベネディクトの戒律と呼ばれる73章の戒律である。

ベネディクトの戒律に関わる図版:MS. Hatton 48 fol. 6v-7r
ベネディクトの戒律Wikimedia Commons Public domain

新しかったのは、極端を避けたことだった。4世紀にエジプトで始まった修道(砂漠の修道制の始まり)は、砂漠での断食や、柱の上で何十年も暮らすといった苦行を尊んだ。ベネディクトゥスは序文で、厳しすぎるもの、重すぎるものは何も定めないつもりだと書く。一日を時間で区切り、共同の祈り、手の労働、聖なる書物の読書、眠りを割り振った。怠惰は魂の敵である、と書き、だから修道士は決まった時間に手を動かし、決まった時間に読むのだ、とする。食事は一日に二品の煮物を基本とし、ぶどう酒は一日に1ヘミナ(4分の1リットルほどとされる)までとした。本来修道士は酒を飲むべきではないが、いまの修道士にそれを説いても聞かないので、せめて度を越さぬように、という書き方がおかしみを誘う。

院長は修道院の父として大きな権限を持つが、大事なことは全員を集めて意見を聞かなければならない。神はしばしば若い者により良いことを示すから、と戒律は書く。病人、老人、子ども、客人への気配りも細かく定められている。修道士は一つの修道院に生涯とどまることを誓った。よく知られた「祈り、かつ働け」という言葉そのものは、戒律の中には無い。後の時代にその精神をまとめた標語である。

メルク修道院の聖ベネディクトゥス像
メルク修道院の聖ベネディクトゥス像Wikimedia Commons Georges Jansoone · Public domain

妹のスコラスティカも近くで修道生活を送り、年に一度だけ兄と会った。最後の面会の日、帰ろうとする兄を引きとめようと彼女が祈ると、晴れていた空がにわかに嵐になり、ベネディクトゥスは帰れなくなった、という話がある。また東ゴートの王トティラが彼を試そうと、家来に王の衣装を着せて差し向けたところ、ひと目で見破った、とも伝わる。547年ごろ、礼拝堂で弟子たちに支えられて立ったまま息を引き取ったという。

戒律そのものは写本を命じていない。だが読書を日課にした以上、修道院には本が要り、本を写すことが修道士の大事な仕事になっていった。同じころ、カッシオドルスが南イタリアの修道院で古典の筆写を勧めたことも重なり、古代の書物の多くは、修道院の写本室を通って中世を生き延びた。

聖ベネディクトのメダイ
聖ベネディクトのメダイWikimedia Commons Gec00 · CC0

戒律が西ヨーロッパの修道院の標準になったのは、死後しばらくたってからである。9世紀にフランク王国のルートヴィヒ敬虔帝のもとで、王国じゅうの修道院がこの戒律に従うよう定められた。10世紀に創立されたクリュニー修道院(クリュニー修道院の創立)の改革も、この戒律の厳格な守り直しを掲げている。モンテ・カッシーノの修道院は、ランゴバルド人に焼かれ、地震で崩れ、1944年には連合軍の爆撃で破壊されたが、そのたびに建て直された。1964年、教皇パウロ6世はベネディクトゥスをヨーロッパの守護聖人とした。

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