人物

スヴェン1世(双叉髭王)

Sweyn Forkbeard
? – AD1014年2月3日
デンマーク重要度 3

概要

ハーラル青歯王の子。父を追って王に。オーラフ・トリグヴァソンをスヴォルドで沈め、イングランドから金を取り続け、1013年に征服した。5週間で死んだ。伝説では聖エドマンドの幻に槍で刺された。息子クヌートが北海帝国を作った。

関わったできごと(2)

スヴォルドの海戦AD1000年 · 勝ったスヴェンのイングランド征服AD1013年 · 王

本文

スヴェン1世は、10世紀末から11世紀初めのデンマーク王である。デンマーク語ではスヴェン・トヴェスケー、「二股の髭のスヴェン」と呼ばれる。イングランド全土を征服した最初のスカンディナヴィアの王で、そのわずか5週間後に死んだ。のちに北海をまたぐ大帝国を築いたクヌートの父であり、その帝国の土台は彼が据えたものだった。

995年に鋳造されたスヴェン双叉髭王の硬貨。これはスカンディナヴィアで製造された、ラテン文字の碑文を持つ最初期の硬貨の一つであり、アングロ・サクソンのモデルに基づき、アングロ・サクソンの貨幣鋳造者によって作られた(表面:ZVEN REX AD DENER「デーン人の王スヴェン」、裏面:GOD-WINE M-AN D-NER「デーン人の間の貨幣鋳造者ゴドウィン」)。
995年に鋳造されたスヴェン双叉髭王の硬貨。これはスカンディナヴィアで製造された、ラテン文字の碑文を持つ最初期の硬貨の一つであり、アングロ・サクソンのモデルに基づき、アングロ・サクソンの貨幣鋳造者によって作られた(表面:ZVEN REX AD DENER「デーン人の王スヴェン」、裏面:GOD-WINE M-AN D-NER「デーン人の間の貨幣鋳造者ゴドウィン」)。Wikimedia Commons Peter Christian Hauberg (1844-1928) · Public domain

父はハーラル青歯王である。ハーラルは、両親の墓所イェリングに立てた大きなルーン石碑に、自分がデンマーク全土とノルウェーを手に入れ、デーン人をキリスト教徒にしたと刻ませた(イェリングのルーン石碑)。スヴェンはこの父に背いた。980年代の後半、彼は父と戦い、敗れたハーラルは東の海岸のスラヴ人(ヴェンド人)の地へ逃れて、そこで傷がもとで死んだと伝えられる。11世紀のブレーメンのアダムは、スヴェンを、キリスト教徒の父を倒して異教に戻った背教者として描いた。しかしこれは、デンマークの教会をブレーメン大司教の下に置きたかった書き手の偏見とみられている。スヴェン自身が教会を建て、イングランドから司教を招いた形跡もあり、彼はキリスト教徒の王だったと考える研究者が多い。

スヴェンの名がイングランドの年代記に現れるのは994年である。ノルウェーの王族オーラフ・トリグヴァソンとともに大船団でロンドンを攻め、撃退されると南東部を荒らし回った。イングランド王エゼルレッド2世は、銀1万6000ポンドを払って彼らを引き揚げさせた。この「デーンゲルド」と呼ばれる支払いは、991年から1012年までのあいだに何度も繰り返され、額はそのたびに膨らんでいった。いまもスカンディナヴィア各地から大量のイングランドの銀貨が掘り出される。

オーラフはこのあと故郷へ戻ってノルウェー王になったが、ノルウェーはかつてデンマーク王の支配下にあった土地である。1000年ごろ、スヴェンはスウェーデン王オーロフや、ノルウェーの有力者エイリーク伯と手を組み、バルト海の島スヴォルドのそばでオーラフの艦隊を待ち伏せた(スヴォルドの海戦)。追い詰められたオーラフは海に身を投げて死に、ノルウェーは勝者たちのあいだで分けられた。スヴェンは父が誇った「ノルウェーの支配」を取り戻したことになる。

スヴォルドの海戦に関わる図版:Svolder, by Otto Sinding
スヴォルドの海戦Wikimedia Commons Otto Sinding · Public domain

イングランドでは、1002年11月13日、聖ブライスの祝日に、エゼルレッド王がイングランドに住むデーン人の殺害を命じた。どれほどの規模で行われたかは分からないが、オックスフォードでは教会に逃げ込んだデーン人が教会ごと焼かれたことが、のちの王の文書から確かめられる。後の年代記は、スヴェンの妹グンヒルドもこのとき殺されたと書くが、確かではない。翌1003年から、スヴェンは繰り返しイングランドへ攻め込み、エクセターやウィルトン、ノリッジを焼いた。

そして1013年夏、スヴェンは息子クヌートを伴って、略奪ではなく征服のために海を渡った。ハンバー川からトレント川をさかのぼってゲインズバラに陣を構えると、かつてデーン人が住みついたイングランド北部と東部(ダーンローの成立)の人々はすぐに彼を王と認めた。スヴェンは南へ進んでオックスフォードとウィンチェスターを降し、最後まで抵抗したロンドンも年末には屈した。エゼルレッド王は妻エマの故郷ノルマンディーへ逃れ、スヴェンはその年のクリスマスのころ、イングランドの王として迎えられた。

スヴェン1世を描いた中世写本(大英図書館所蔵)
スヴェン1世を描いた中世写本(大英図書館所蔵)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

しかし、新しい王の治世は続かなかった。1014年2月3日、スヴェンはゲインズバラで急死した。50歳前後だったとみられる。死因は分からない。イングランドの修道院では、かつてデーン人に殺された東アングリアの王聖エドマンドが現れ、聖人の領地に税を課そうとした王を槍で突き殺したという話が語られた。教会の財産を脅かした者への罰として作られた伝説である。遺体はいったんイングランドに葬られ、のちにデンマークへ運ばれた。ロスキレに葬られたとする記録があるが、墓の場所ははっきりしない。

スヴェンが死ぬと、イングランドの貴族たちはエゼルレッドを呼び戻し、若いクヌートはいったんデンマークへ退いた。デンマークの王位はクヌートの兄ハーラル2世が継いだ。だがクヌートは1015年に再びイングランドへ攻め込み、1016年にイングランドの王となる。のちにはデンマーク、ノルウェーの王も兼ね、北海を囲む国々を一人で治めた(クヌートの北海帝国)。父スヴェンの20年にわたる攻撃が、その道を開いたのだった。

『アビンドン年代記』に描かれたエゼルレッド(1220年頃)
『アビンドン年代記』に描かれたエゼルレッド(1220年頃)Wikimedia Commons See description · Public domain

スヴェンの妻は、ポーランドの君主ミェシュコ1世の娘だったとみられるが、名前や生涯には分からないことが多い。のちのサガは、スウェーデン王の母「傲慢なシグリッド」を彼の妻としている。娘のエストリッドの子スヴェン2世は、デンマーク王家を受け継いだ。デンマークの王家は、いまもこのエストリッドの流れを遠く引いているとされる。子孫の名とともに伝わったスヴェン自身の姿は、征服者の荒々しさと、5週間で終わった治世のはかなさが重なったものである。

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1014年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →