できごと

藍の反乱

Indigo revolt
AD1859年
重要度 4
大英帝国ロシア帝国清オスマン帝国Turanマラーター同盟ペルシア中央アジアの諸ハン国スペイン帝国イギリス東インド会社ラタナコーシン朝(シャム)アフガニスタンNejdビルマ日本ソマリアマラヤ安南朝鮮王朝AssamフィリピンカンボジアZanzibarオランダ領東インドネパールオマーンOudhイエメンマイソール藩王国アラカンセイロンAD1859年コルカタ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1859年の版図を描いています(31勢力)。

概要

ベンガルの農民は、耕地の一部に藍を作ることを強いられた。前貸しの金を受け取ると、抜けられない。買い取り価格は生産費を下回り、借金だけが積み上がる。拒めば、私設の暴力団に打たれ、家を焼かれ、家族を捕らえられた。1859年、ナディア県で作付けの拒否が始まり、ベンガル全域に広がる。裁判が起こされ、新聞が書き、戯曲『ニール・ダルパン』が事態を伝えた。調査委員会が置かれ、強制の作付けは崩れた。植民地の農民の、組織的な抵抗の初期の例である。

場所

コルカタ
22.57°N 88.36°E · インド・西ベンガル州

本文

藍染めの青は、マメ科のインドアイなどの葉から取る。葉を水に浸けて発酵させ、液をかき回して空気に触れさせると、溶けていた色の無い成分が酸化して、青い沈殿になる。それを集めて乾かし、固めたものが染料の藍(インディゴ)である。染めるときは、これをもう一度溶ける形に戻し、布を浸して引き上げる。空気に触れたとたん、布は青く染まっていく。藍の青は褪せにくく、昔から世界中で愛されてきた。

19世紀の前半、ヨーロッパで藍の需要が膨らんだ。軍服を染め、産業革命で大量に織られる布を染めるためである。一方、それまで大きな産地だったカリブ海では、ハイチ革命や砂糖への作付けの転換で、藍の生産が落ちていた。代わりに目を付けられたのが、イギリス東インド会社の支配するベンガルやビハールだった。ヨーロッパ人の農園主たちがこの地に藍の工場を構え、周りの農民に藍を作らせた。

産業革命に関わる図版:Powerloom weaving in 1835
産業革命Wikimedia Commons Illustrator T. Allom, Engraver J. Tingle · Public domain

その仕組みは、農民を逃れられない借金で縛るものだった。農園主は農民に金を前貸しし、農民は自分の耕地の一部で藍を作ることを約束する。しばしば最も良い田が指定された。収穫した藍の葉は、決まった値で引き渡さなければならない。ところがその値は、作るのにかかる費用を大きく下回っていた。作れば作るほど損をし、借金は返せない。返せないから、翌年も作らされる。一度金を受け取ったら抜けられず、借金は子に引き継がれることもあった。藍を植える時期は稲と重なり、藍は土を痩せさせるともいわれた。食べるための米を作る土地と時間が、藍に奪われていった。

拒めば、暴力が待っていた。農園主は棍棒を持った手下を雇っていて、言うことを聞かない農民を打ち、家を焼き、牛を奪った。女性や子どもを農園の屋敷に連れ去って閉じ込めたという証言もある。地元の警察や治安判事は、多くの場合、同じヨーロッパ人である農園主の側に立った。農民が訴えても、聞き入れられることはまれだった。

ベンガルの藍染工場(1867年、ビカネール)
ベンガルの藍染工場(1867年、ビカネール)Wikimedia Commons William Simpson · Public domain

1859年、ベンガルのナディア県で、ビシュヌチャラン・ビシュワースとディゴンボル・ビシュワースという二人の村の指導者が、今年は藍を作らない、と決めた。周りの村々がそれに続いた。作付けの拒否は数か月のうちにベンガルの広い範囲へ広がった。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の農民が、ともに加わった。農園主が手下を差し向けると、農民は竹の棒を手に立ち向かい、死者も出た。

この抵抗は、暴力だけで戦われたのではない。農民たちは村ごとにお金を出し合って裁判の費用を集め、弁護士を雇い、法廷で農園主と争った。藍の工場へ人を出さない、藍の工場のために働く者とは付き合わない、といった取り決めも行われた。植民地の農民が組織を作って抵抗した、早い時期の例として、この運動はのちのインドの民族運動の先駆けとも位置づけられている。

India, by British Information Services, 1944 restored version
Wikimedia Commons British Information Services, an agency of the British Government, restoration by Wilfredor · Public domain

書く人々もいた。カルカッタの英字新聞『ヒンドゥー・パトリオット』を率いたハリシュ・チャンドラ・ムカルジーは、農民の側に立って農園主の非道を繰り返し報じた。彼は農園主から訴えられ、心身をすり減らして1861年、37歳の若さで死んだ。1860年には、ディナバンドゥ・ミトラがベンガル語の戯曲『ニール・ダルパン』(藍の鏡)を発表し、農民の苦しみを舞台の上に描き出した。翌年、宣教師ジェイムズ・ロングがその英語訳を出すと、農園主たちは名誉を傷つけられたとして彼を訴えた。ロングは有罪とされ、1000ルピーの罰金と1か月の禁錮を言い渡された。その罰金は、法廷にいたベンガルの文人カリプロッションノ・シンホがその場で立て替えたと伝えられる。この戯曲は、インドでしばしばアメリカの『アンクル・トムの小屋』になぞらえられる。

騒ぎの大きさに、植民地政府も動かざるをえなかった。1860年、藍の栽培を調べる委員会が置かれ、農民や農園主、宣教師から証言が集められた。委員会の報告は、強制と暴力の実態をおおむね認めた。政府は、農民に藍の作付けを強制することは認められないという立場を取り、ベンガルでの強制的な藍の栽培は崩れていった。

しかし、それで藍をめぐる苦しみが終わったわけではない。農園主たちの多くは、隣のビハールへ移り、同じような仕組みを続けた。半世紀あまり後の1917年、そのビハールのチャンパーランで、藍の農民たちのために立ち上がったのが、南アフリカから帰国したばかりのガンディーである。それは、ガンディーがインドで取り組んだ最初の本格的な運動になった。

藍の強制栽培にとどめを刺したのは、農民の運動でも、政府の法でもなかった。ドイツの化学工場が、植物を使わずに藍を作り出したのである(合成インディゴ)。1897年に売り出された合成の藍は、たちまち値段で天然の藍を圧倒し、インドの藍の工場は次々と閉じていった。ベンガルの農民が命がけで拒んだものは、遠い国の試験管の中で、あっけなく不要になったのである。

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