豚戦争
概要
米英の国境が曖昧なサンフアン島で、一頭の豚が撃たれたことから両国が軍を出してにらみ合った紛争。死者は豚だけだった。
場所
48.53°N -123.08°E · アメリカ合衆国・ワシントン州
関わった人(1)
ヴィルヘルム1世AD1797年3月22日–AD1888年3月9日 · 国境の仲裁を託された本文
1846年、アメリカとイギリスはオレゴン条約を結び、北アメリカ北西部の境界を北緯49度の線と定めた。大統領ジェームズ・ポークの時代である。線は海に出るとバンクーバー島と大陸を分ける「水路の中央」を南へ通ることになっていたが、その水路が二つあった。サンフアン諸島の西側のハロ海峡と、東側のロサリオ海峡である。アメリカは西を、イギリスは東を国境だと主張し、間にある島々はどちらの領土とも決まらないまま残った。
サンフアン島は大きな島ではないが、バンクーバー島のイギリスの拠点ビクトリアと大陸の間の海峡を見下ろす要の位置にあった。島にはイギリスのハドソン湾会社が牧場を開いて羊を飼い、一方で1850年代の終わりにはアメリカ人の入植者が二十数人住みついていた。
1859年6月15日、アメリカ人の農夫ライマン・カトラーは、自分の畑で芋を掘り返していた豚を見つけて撃ち殺した。豚はハドソン湾会社の牧場で働くアイルランド人チャールズ・グリフィンのもので、放し飼いにされていた。カトラーは10ドルの弁償を申し出たが、グリフィンは100ドルを求め、話はこじれた。このときカトラーが「豚がうちの芋を食べていた」と言い、グリフィンが「豚に芋を食べられないようにするのはお前の役目だ」と返したという話が伝わるが、後の作り話とみられる。イギリス側の役人がカトラーを逮捕すると言い出したため、アメリカ人入植者は軍の保護を求めた。
アメリカ陸軍のハーニー将軍は、ジョージ・ピケット大尉と兵66人を島に送った。ピケットははじめ、イギリス軍艦の大砲の真下に陣を構えてしまい、誤りを指摘されて海峡を見下ろす高台に移った。イギリス側も軍艦3隻を出して対抗した。8月10日には、アメリカ側は兵461人と大砲14門、イギリス側は軍艦5隻に大砲70門、兵2140人にふくれ上がっていた。バンクーバー島植民地の総督ダグラスは上陸してアメリカ兵を追い出すよう命じたが、現地の艦長は動かず、到着した太平洋艦隊のベインズ少将は、豚をめぐる口げんかで二つの大国を戦争に巻き込むつもりはないと言って、戦いを避けた。
知らせに驚いた両国の政府は、すぐに事態を収めにかかった。アメリカのブキャナン大統領は陸軍総司令官ウィンフィールド・スコットを送り、ダグラス総督と交渉させた。その結果、最終的な決着まで両国が島を共同で占領し、兵力をそれぞれ100人以下に減らすことになった。イギリス軍は島の北に、アメリカ軍は南に陣を置いた。アメリカ軍の砲台の土塁を築く監督をした若い少尉ヘンリー・ロバートは、のちに会議の進め方の手引き『ロバート議事規則』を書いたことで知られる。それからの12年間、両軍の兵士は互いの国の祝日に陣地を訪ね合い、競技会を開いて仲良く過ごしたという。
そのあいだにアメリカでは南北戦争が起き、島に来たピケットはのちに南軍の将軍としてゲティスバーグの戦いで名を残した。1871年、両国はワシントン条約で残った問題をまとめて片付けることにし、サンフアン島の帰属はヴィルヘルム1世の仲裁に委ねられた。皇帝が任じた3人の委員会はジュネーブで1年近く審議し、1872年10月21日、ハロ海峡を国境とするアメリカの主張を認めた。イギリス軍は11月に島を去り、紛争は一発の銃撃戦もないまま終わった。この間の1871年には、島の対岸のブリティッシュ・コロンビア植民地が、1867年に生まれたカナダ連邦(カナダ連邦の成立)に加わっていた。死んだのは豚一頭だけだった。いま島の両軍の陣地跡は国立歴史公園になっており、イギリス軍の陣地跡には今もイギリス国旗が毎日掲げられている。