ドレークの油井
概要
石油は、地面に滲み出るものを掬って集めていた。灯火用の鯨油が高騰し、代わりが求められていた。元の車掌エドウィン・ドレークが、塩井を掘る技術を油に転用した。柔らかい地層で穴が崩れるため、鉄管を打ち込んでその中を掘る。二十一メートルで油が上がってきた。この一本から、産油という産業が始まる。ドレークは特許を取らず、投機に失敗し、貧しくなった。晩年、州が年金を与えている。
場所
41.63°N -79.67°E · アメリカ・ペンシルヴェニア州
関わった人(1)
エドウィン・ドレークAD1819年3月29日–AD1880年11月9日 · 掘った本文
石油そのものは、昔から知られていた。地面から黒い油がにじみ出る場所は世界のあちこちにあり、ペンシルヴェニア北西部の谷もその一つだった。英語の「ペトロリアム」は、ラテン語の「岩」と「油」を組み合わせた言葉である。19世紀のアメリカでは、この油は瓶に詰められ、「セネカ油」や「岩の油」の名で、リウマチから傷まで何にでも効く薬として売られていた。
もちろん、そんな効き目は無い。集め方も素朴で、油の浮いた水たまりに毛布を浸し、吸い込んだ油を絞り出す。一日に数ガロンがせいぜいだった。

19世紀の半ば、人々が求めていたのは薬ではなく、明かりだった。夜を照らす油として最も上等とされたのは鯨油、とくにマッコウクジラの頭から取る油で、明るく、煙が少なく、においも少なかった(鯨油)。だが鯨は獲りすぎで減り、捕鯨船は何年もかけて遠い海まで出なければならなくなった。1850年代、鯨油の値段は高騰し、一ガロンが2ドル近くになった。労働者の一日の稼ぎに近い額である。
代わりの油が探された。スコットランドのジェイムズ・ヤングやカナダのエイブラハム・ゲスナーは、石炭や瀝青から燃える油を取り出す方法を開発し、ゲスナーはその油を「ケロシン」と名づけた。東ヨーロッパでは、1850年代に石油から作った灯油で灯すランプが現れていた(灯油のランプ)。1855年、イェール大学の化学者ベンジャミン・シリマン・ジュニアは、ペンシルヴェニアの岩の油を分析し、蒸留すれば明かり用のすぐれた油が得られるという報告を書いた。

この報告書が投資家たちを動かした。ニューヘイヴンの銀行家ジェイムズ・タウンゼンドらが、油を大量に得るための会社を作った。のちにセネカ石油会社と呼ばれる会社である。
現地に送り込まれたのが、エドウィン・ドレークだった。1819年生まれ、もとは鉄道の車掌で、病気のために職を退いていた。タウンゼンドと同じホテルに泊まっていたのが縁で、この仕事を任された。鉄道の無料乗車券をまだ持っていて、旅費がかからないことも選ばれた理由の一つだったと伝えられる。会社は地元の人々の信用を得るため、彼に手紙を送るとき「ドレーク大佐」と宛名を書いた。彼に軍歴は無かった。
1858年、ドレークはペンシルヴェニアの小さな町タイタスヴィルの近くに着いた。彼が頼りにしたのは、塩を作るための井戸を掘る技術だった。塩水を汲み上げて煮詰める塩の井戸は、すでに深くまで掘られていた。その掘り方は、重い鉄のたがねを綱で吊るして落とし、引き上げてはまた落として岩を砕き、砕けた岩を汲み出すというものである。ドレークは、塩の井戸の掘削の経験がある鍛冶屋ウィリアム・スミスを雇った。「ビリーおじさん」と呼ばれたこの男と息子たちが、実際の掘削にあたった。
最初の壁は、地面のすぐ下の地層だった。砂利と水を含んだ柔らかい土で、掘ってもすぐに崩れて穴が埋まってしまう。ドレークは、鋳鉄の管を岩盤まで打ち込み、その管の中を掘ることにした。管が穴の壁を支えるので、崩れない。この方法は、いまも油井やガス井、水の井戸で、穴の内側を管で守る技術として受け継がれている。ドレークの実質的な貢献は、ここにあった。
掘削は遅々として進まなかった。地元の人々は彼を笑い、出資者の金は尽きかけた。1859年8月、タウンゼンドは事業を打ち切れと指示する手紙を送った。その手紙が届く前に、事は起きた。
1859年8月27日、土曜日。深さ69.5フィート、約21メートルに達したところで、たがねが岩の割れ目に落ち込んだ。その日の作業はそこで終わった。翌日の日曜日、スミスが穴をのぞき込むと、管の中に黒い液体が上がってきていた。手押しのポンプで汲み上げると、一日に二十数バレルの油が出た。毛布で油を集めていた時代とは比べものにならない量だった。
知らせが広まると、タイタスヴィルには人が殺到した。土地の値段は跳ね上がり、谷には一年のうちに何百本もの井戸が掘られ、木の櫓が林のように立ち並んだ。ペンシルヴェニアの産油量は、1860年には約50万バレル、1862年には約300万バレルにふくれ上がった。そして値段は暴落した。
1861年には、一バレルが10セントまで下がった時期がある。地下の油は汲み上げた者のものになるという決まりがあったため、誰もが隣より先に、少しでも速く汲もうとした。掘りすぎで値は崩れ、油田は早く枯れた。限られた資源をどう分け合い、どう守るかという問題は、ここから始まって、いまも続いている。
混乱の中から現れたのが、ジョン・D・ロックフェラーだった。彼は油を掘るのではなく、原油を精製して灯油にする工場と、それを運ぶ鉄道と管を押さえることで、業界を支配した。1870年にスタンダード石油会社を設立し、やがてアメリカの精製能力の大部分を握る巨大な独占企業に育てた(スタンダード・オイルの解体)。石油の灯りは鯨油を家庭から追い出し、捕鯨の時代の終わりを早めた。やがて内燃機関が発明されると(ガソリンで走る車)、灯油を取った後に余って捨てられていたガソリンが、主役の座につく。
ドレーク自身は、この富をほとんど手にしなかった。管を打ち込む方法の特許を取らなかったので、誰でも自由に真似ができた。1860年には会社を離れ、油の売買の仲介をしたが、1860年代半ばには投機に失敗して財産を失った。体を病み、ほとんど歩けなくなり、1870年代には貧しさの中で暮らした。
1873年、彼のおかげで州が豊かになったとして、ペンシルヴェニア州議会は年1500ドルの年金を与えることを決めた。1880年、ドレークは61歳で世を去った。1901年、タイタスヴィルに彼の記念碑と墓が作られた。費用を出したのは、スタンダード石油の重役だった。
ドレークの井戸を「世界最初の油井」と呼ぶのは、厳密には正しくない。中国の四川では、紀元前から竹を使った掘削で深い井戸を掘って塩水を汲み、湧き出る天然ガスを燃料に使っていた。1840年代には、カスピ海沿岸のバクーの近くで、ロシアの技師が井戸を掘って油を得ている。それでもドレークの井戸が画期とされるのは、石油を得るために意図して掘られ、それがそのまま一つの産業の始まりになったからである。21メートルの穴から、20世紀を動かす燃料の時代が始まった。