ポンテス・ロンギの戦い
概要
ゲルマニア遠征から引き揚げるローマ軍を、アルミニウスの率いるゲルマン人が湿地の「長い橋」で襲った戦い。
場所
52.40°N 7.98°E · ドイツ・ニーダーザクセン州(位置は確定していない。ブラムシェ付近とする説がある)
関わった人(2)
アルミニウスBC18年頃–21年 · ゲルマン軍を率いてカエキナを襲ったゲルマニクスBC15年5月24日–AD19年10月10日 · 遠征の総指揮。副将カエキナを陸路で帰した本文
ポンテス・ロンギの戦いは、紀元15年、ゲルマニアの湿地でローマ軍とゲルマン人の連合軍が戦った戦いである。ポンテス・ロンギはラテン語で「長い橋」の意味で、湿地を渡るために丸太を敷き並べた土手道のことを指す。日本では「ロングブリッジの戦い」とも呼ばれる。様子を詳しく伝えるのは、ローマの歴史家タキトゥスのタキトゥス『年代記』だけである。
6年前の紀元9年、ローマはゲルマニアで大敗を喫していた。トイトブルク森の戦いで、ケルスキ族の首長アルミニウスがウァルスの率いる3個軍団を全滅させたのである。アウグストゥスの死後、紀元14年から、その養孫にあたるゲルマニクスがライン川を越えて報復の遠征を始めた。アルミニウスは若いころローマ軍の補助部隊を率い、ローマの市民権まで得ていた人物で、ローマの戦い方を内側から知っていた。紀元15年の春には、ローマに味方するケルスキ族の首長セゲステスとアルミニウスが争い、ゲルマニクスはセゲステスを救い出した。そのとき、セゲステスの娘でアルミニウスの妻だったトゥスネルダが、身ごもったままローマ側に引き渡されている。妻を奪われたアルミニウスは、諸部族に呼びかけてローマへの戦いを広げた。
紀元15年の夏、ゲルマニクスは大軍を三手に分けてエムス川のあたりに集め、ブルクテリ族の土地を荒らした。その途中、トイトブルク森の戦場を訪れ、6年間野ざらしになっていた兵士たちの骨を葬っている。そのあとアルミニウスの軍とぶつかったが、決着はつかなかった。ゲルマニクスは軍を分け、自らの軍は船でエムス川を下り、副将のアウルス・カエキナ・セウェルスには4個軍団を率いて陸路でライン川へ戻るよう命じた。
カエキナは40年の軍歴を持つ老練な将だった。タキトゥスによれば、帰路には、かつてルキウス・ドミティウスが広い沼地の中に築いた、細い土手道があった。長い年月で傷んでいたため、カエキナは兵を道の修理と野営地づくりに分けて働かせた。そこへ、先回りしたアルミニウスの軍が襲いかかった。ゲルマン人は沼地での戦いに慣れており、重い装備のローマ兵はぬかるみに足を取られて苦しんだ。
その夜、カエキナはウァルスが沼から現れて手招きする夢を見たと、タキトゥスは書いている。翌日の戦いでは、軍団の隊列が分断され、カエキナ自身も乗っていた馬を倒されて、第1軍団に救われた。ゲルマン人の多くが荷車の略奪に気を取られたために、ローマ軍はかろうじて乾いた土地に逃れ、野営地を築くことができた。夜には、敵が陣地に乱入したという噂が広がって兵が門へ殺到した。カエキナは門の前に身を投げ出して兵を押しとどめたという。
ゲルマン人の側でも意見が分かれた。アルミニウスは、ローマ軍を野営地から出させ、ふたたび沼地に入ったところを討つべきだと説いた。しかし叔父のインギオメルスは、夜明けに野営地を襲うべきだと主張し、多くの首長がそれに従った。翌朝、ゲルマン人は陣地に攻めかかったが、待ち構えていたローマ軍が門から打って出て、これを打ち破った。インギオメルスは重傷を負い、アルミニウスも退いた。
カエキナはその後、土手道を直してライン川まで戻り、凱旋将軍の顕彰を受けた。タキトゥスの書き方ではローマの勝ちだが、危うく第二のトイトブルクになりかけた戦いでもあった。ローマ軍は多くの荷を失い、ライン川の基地には、軍が全滅したという噂まで届いていたという。
戦場の位置は分かっていない。ニーダーザクセン州のブラムシェ近くで見つかった古い丸太道の木材は、年輪から紀元15年ごろのものとされ、ここを「長い橋」とする説がある。近くのカルクリーゼで見つかったローマ軍の遺物を、ウァルスではなくこの戦いと結びつける研究者もいる。一方、ライン川から遠すぎるとして、もっと南西のミュンスター付近に求める見方もある。
ゲルマニクスの遠征はその後も続いたが、ローマはエルベ川までをふたたび属州にすることはできなかった。紀元16年を最後に、ティベリウス帝は遠征を打ち切り、ライン川が帝国の境となった。ポンテス・ロンギの戦いは、その結末に向かう道のりの、一つの険しい場面だった。