アルミニウス
概要
ゲルマン人ケルスキ族の首長。ローマ軍で育ち、紀元9年にトイトブルク森で3個軍団を全滅させた。
関わったできごと(2)
トイトブルク森の戦いAD9年 · ゲルマン諸部族を率いて軍団を誘い込んだポンテス・ロンギの戦いAD15年 · ゲルマン軍を率いてカエキナを襲った本文
アルミニウスは、ライン川とエルベ川の間に住んだゲルマン人のケルスキ族の首長セギメルの子として、紀元前18年ごろに生まれたとされる(17年ごろとする説もある)。アルミニウスはローマ側の記録に残る名で、本来の名は分かっていない。弟はのちにフラウスと呼ばれた。そのころローマはアウグストゥスの下でライン川を越え、エルベ川までを新しい属州ゲルマニアにしようとしていた。
若いアルミニウスはローマ軍に仕え、ゲルマン人の補助部隊を率いた。ローマの歴史家ウェッレイウス・パテルクルスは、彼がローマの市民権と騎士身分まで得ていたと書いている。ローマの軍団がどう動き、どこで弱いかを、内側から知っていたことになる。紀元7年ごろからゲルマニアの総督となったウァルスは、この地をすでに治まった属州のように扱い、税を課し、ローマの法で裁こうとした。ウァルスの信頼を得ていたアルミニウスは、その陰で諸部族に反乱を呼びかけた。
紀元9年の秋、アルミニウスはウァルスに、遠くの部族が反乱を起こしたと伝えて、3個軍団と補助部隊を慣れない森と湿地へ誘い込んだ。ケルスキ族の別の首長セゲステスは前夜に企てをウァルスへ告げたが、聞き入れられなかったとタキトゥスは書く。数日にわたる戦いで、第17・第18・第19軍団はほぼ全滅し、ウァルスは自害した(トイトブルク森の戦い)。アルミニウスはウァルスの首を、マルコマンニ族の王マロボドゥウスへ送り、同盟を誘った。マロボドゥウスは首をローマへ送り返し、誘いには乗らなかった。アウグストゥスが「ウァルスよ、軍団を返せ」と叫んだという話は、スエトニウスが伝えている。
アルミニウスは、セゲステスの娘トゥスネルダを、父の意に反して連れ出して妻にしていた。紀元15年、アウグストゥスの死後にローマの報復の遠征を率いたゲルマニクスは、アルミニウスに囲まれたセゲステスを救い出し、身ごもっていたトゥスネルダを捕らえた。妻を奪われたアルミニウスは諸部族をさらに強く呼び集めた。その夏、ゲルマニクスの副将カエキナの軍を湿地の土手道で襲い、あと一歩まで追い詰めた(ポンテス・ロンギの戦い)。このときアルミニウスは、ローマ軍を沼地に引き出してから討つよう説いたが、叔父インギオメルスの陣地への強襲の案が通り、勝ちを逃したとタキトゥスは書く。
紀元16年、ゲルマニクスは船で大軍を北から送り込み、ヴェーザー川のほとりのイディスタウィソとアングリウァリイの土塁で二度アルミニウスの軍を破った。タキトゥスによれば、アルミニウスは傷を負い、顔を自分の血で汚して見分けられないようにして逃れた。戦いの前には、ローマ側に仕えたままの弟フラウスと川を挟んで言い争い、裏切り者と罵り合ったとも伝えられる。それでもローマはゲルマニアを取り戻せず、皇帝ティベリウスはその年の末にゲルマニクスを呼び戻した。ライン川がローマの境となり、エルベまでの属州は二度と作られなかった。
ローマの脅威が去ると、ゲルマン人同士の争いが始まった。紀元17年、アルミニウスはマロボドゥウスと戦い、相手を退かせた。マロボドゥウスはのちに国を追われ、ローマに亡命している。一方、アルミニウスの力が大きくなると、王になろうとしているとの疑いが同族の中に広がった。カッティ族の首長がローマに毒を送ってくれればアルミニウスを殺すと申し出たが、ティベリウスは、ローマは敵を毒ではなく武器で討つと言って退けた、とタキトゥスは書いている。
紀元21年ごろ、アルミニウスは親族の裏切りで殺された。タキトゥスは彼を、間違いなくゲルマニアの解放者と呼び、37歳で死に、12年のあいだ力を持ったと記した。トゥスネルダと、捕らわれの中で生まれた子トゥメリクスは、紀元17年のゲルマニクスの凱旋式で引き回された。子のその後は、タキトゥスの書き残しが失われていて分からない。
16世紀以後、タキトゥスの著作が読み直されると、ドイツではアルミニウスを「ヘルマン」と呼び、ローマに屈しなかったドイツ人の祖として仰ぐようになった。19世紀の民族主義の高まりの中で、デトモルト近くの丘に巨大なヘルマン像が建てられ、1875年に除幕された。戦いの場所は長く分からなかったが、1980年代の末からニーダーザクセン州のカルクリーゼで大量のローマ軍の遺物が見つかり、ここを戦場の一部とする見方が強い。いまでは、彼を民族の英雄とするより、ローマに育てられてローマに背いた一人の首長として見る研究が増えている。