人物

ロンメル

Erwin Rommel
AD1891年11月15日 – AD1944年10月14日(享年52)
ドイツ重要度 4

概要

第一次大戦でイタリア戦線の山を取って最高勲章。『歩兵は攻撃する』。フランスで第7装甲師団「幽霊師団」。北アフリカで「砂漠の狐」。エル・アラメインで退き、ノルマンディーの防備を作り、ヒトラー暗殺計画に名が出て、自決を強いられた。「国葬」で葬られた。

関わったできごと(1)

エル・アラメインの戦いAD1942年10月23日 · 退いた

本文

エルヴィン・ロンメルは1891年、ドイツ南西部ヴュルテンベルク王国の小さな町ハイデンハイムに、教師の子として生まれた。貴族の出が多いプロイセンの将校団とは縁のない、中流の家の出身である。1910年、地元の歩兵連隊に士官候補生として入った。

第一次世界大戦で、ロンメルは並外れた前線指揮官として頭角を現した。西部戦線やルーマニアで戦ったのち、1917年秋、ヴュルテンベルクの山岳大隊の中隊を率いて、イタリア戦線のカポレットの攻勢に加わった。彼の部隊は山の尾根づたいに敵陣の奥深くへ回りこみ、要の高地マタイウール山を奪い、わずかな兵で数千人のイタリア兵を捕虜にした。この功で、彼はプロイセンの最高の武功章プール・ル・メリットを受けた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

戦間期には歩兵学校の教官などを務め、1937年、第一次大戦での自分の戦いを教材としてまとめた『歩兵は攻撃する』を出した。本はよく売れ、ヒトラーの目にとまった。1938年からロンメルは総統の身辺を守る部隊の指揮をまかされ、ヒトラーの近くで仕えた。彼はヒトラーに心酔していたと見られている。

1940年、ロンメルは自ら望んで第7装甲師団の師団長となった。歩兵の出で、戦車の部隊を率いた経験はなかった。だが5月に始まったフランスへの攻撃で、彼の師団は猛烈な速さで進み、敵の後方を突き抜けた。味方の司令部でさえ居場所をつかめないほどだったため、「幽霊師団」と呼ばれた。

1917年、イタリア戦線でのロンメル
1917年、イタリア戦線でのロンメルWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1941年2月、ロンメルはイタリア軍を助けるため北アフリカのトリポリに送られた。のちにドイツ・アフリカ軍団と呼ばれる部隊である。上層部からは守りに徹せよと命じられていたが、彼は着いて間もなく攻勢に出て、イギリス軍をエジプトの国境まで押し戻した。要港トブルクは落とせなかったが、砂漠での神出鬼没の戦いぶりから、イギリス側は彼を「砂漠の狐」と呼んだ。イギリス兵のあいだでロンメルの名があまりに恐れられたため、イギリス軍の司令官オーキンレックが、ロンメルは超人ではない、彼の名を口にしすぎるな、という趣旨の通達を出したことが知られている。

1942年6月、ロンメルはついにトブルクを落とし、ヒトラーから元帥に任じられた。そのままエジプトへ攻め入り、スエズ運河をうかがったが、補給は長く伸びきり、燃料も兵も足りなかった。カイロの西のエル・アラメインで進撃は止まり、同年10月から11月の戦いで、モントゴメリーの率いるイギリス軍に敗れた(エル・アラメインの戦い)。ロンメルはヒトラーの死守命令にいったんは従いながらも、最後は退却に踏み切った。1943年3月、病もあって彼はアフリカを去った。残された枢軸軍は5月にチュニジアで降伏した。

エル・アラメインの戦いに関わる図版:El Alamein 1942 - British infantry
エル・アラメインの戦いWikimedia Commons Len Chetwyn · Public domain

その年の終わり、ロンメルは連合軍の上陸に備えてフランスの海岸の守りを固める役目を負った。彼は、敵が上陸してくる最初の24時間で勝負が決まると考え、海岸に障害物と地雷をおびただしく並べさせた。だが1944年6月6日、連合軍がノルマンディーに上陸したその日、彼は妻の誕生日を祝うためにドイツの自宅に帰っていた。急いで戦線に戻ったものの、上陸を押し返すことはできなかった。7月17日、前線を車で移動中に連合軍の戦闘機に銃撃され、頭に重い傷を負った。

3日後の7月20日、ヒトラー暗殺の未遂事件が起きた。取り調べの中で、計画にかかわった将校たちがロンメルの名を口にした。彼の参謀長シュパイデルは、抵抗運動の側の人物だった。10月14日、療養中のロンメルの家に、ヒトラーの使いとして二人の将軍が訪れた。人民法廷の裁判を受けるか、毒をあおるか。毒を選べば、国葬で葬られ、家族の身の安全は保証される。ロンメルは妻と息子に別れを告げ、二人の将軍の車に乗りこみ、まもなく車中で毒を飲んで死んだ。52歳だった。発表では、負傷がもとで亡くなったとされ、盛大な国葬が営まれた。

ヒトラーと共に地図を確認するロンメル(左端)(1939年9月)
ヒトラーと共に地図を確認するロンメル(左端)(1939年9月)Wikimedia Commons Rutkowski · Public domain

ロンメルが暗殺計画にどこまでかかわっていたのかは、いまもはっきりしない。計画を知っていたが加わらなかった、という見方もあれば、ヒトラーを除いて西側と和平を結ぶことに傾いていたものの、暗殺そのものには反対していた、という見方もあり、計画をほとんど知らなかったとする研究者もいる。

戦後、ロンメルは、敵だったイギリスで特に高く評価された。騎士道を守った正々堂々の軍人、ナチではなかった良いドイツ人、という像である。1950年代には伝記や映画、本人の手記をまとめた本が次々に出て、この「ロンメル神話」が広まった。捕虜を丁重に扱い、捕らえた敵の特殊部隊員を殺せというヒトラーの命令を握りつぶしたとされる逸話は、その像を支えた。一方で近年の研究は、彼が長くヒトラーを信奉し、その体制のもとで出世したことや、北アフリカに親衛隊の殺害部隊が入らなかったのは、彼の意志というより戦況のためだったことを指摘している。

ロンメルの第7機甲師団の多数を占めた38(t)戦車。
ロンメルの第7機甲師団の多数を占めた38(t)戦車。Wikimedia Commons Werner Willmann · CC BY 2.5

息子のマンフレートは戦後政治家となり、1974年から1996年までシュトゥットガルト市長を務め、移民や外国人の住民を大切にする市政で知られた。ドイツ連邦軍の兵営にはロンメルの名を冠したものがあり、その是非をめぐる議論が続いている。ロンメルは、味方よりも敵に、そして戦った当時よりも戦後に、その名を大きくした軍人だった(第二次世界大戦)。

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