人物

ジャン・カルヴァン

Jean Calvin
AD1509年7月10日 – AD1564年5月27日(享年54)
ジュネーヴ重要度 4

概要

救われる者は初めから決まっていると説き、ジュネーヴを教会が律する町にした。勤労と蓄財を肯定した教えが、商人の間に広がる。

関わったできごと(1)

カルヴァンのジュネーヴAD1541年 · 主導

本文

1509年7月10日、北フランスのピカルディー地方の町ノワイヨンに生まれた。フランス語の名はジャン・コーヴァン。父は司教座の書記や会計を務める人物で、教会とのつながりを生かして、息子を聖職者にするつもりだった。母は早くに亡くなった。少年は12歳で教会から俸給を受ける身分を得て、14歳でパリの学寮に送られ、神学の基礎となる学問を学んだ。

ジャン・カルヴァンの肖像
ジャン・カルヴァンの肖像Wikimedia Commons Anonymous ( France ) Unknown author · Public domain

ところが父が教会の参事会と争いになり、方針を変えた。聖職より法律家の方が稼げる、と息子に法学を学ばせたのである。カルヴァンはオルレアンとブールジュで法律を学び、同時に、ギリシア語やラテン語の古典を原典で読む人文主義の学問に打ち込んだ。最初の著書は、古代ローマの哲学者セネカの著作への注釈だった。神学者として正式な訓練を受けていないことは、のちの彼の書き方に、法律家の明晰さとして表れる。

その頃、ドイツではルターの95か条の論題から始まった宗教改革が広がり、その考えはフランスの学生や知識人の間にも入り込んでいた。カルヴァンは1533年頃、自ら「突然の回心」と呼ぶ転機を経て、改革の側に立った。同じ年、パリ大学の学長が改革の考えをにじませた演説をして騒ぎになり、草稿に関わったと疑われたカルヴァンはパリを逃れた。翌年、ミサを攻撃する貼り紙が国王の寝室の扉にまで貼られる事件が起きると、国王フランソワ1世は改革派への弾圧を強め、カルヴァンはスイスのバーゼルへ亡命した。

95か条の論題に関わる図版:Luther 95 Thesen
95か条の論題Wikimedia Commons Martin Luther · Public domain

1536年、26歳のカルヴァンは、ラテン語で『キリスト教綱要』を出した。迫害されているフランスの改革派が反逆者ではないことを国王に訴える献辞をつけ、新しい信仰の中身を体系立てて説いた本である。初版は小さな本だったが、彼は生涯この本に手を入れ続け、最後の版は初版の5倍ほどの大著になった。自らフランス語にも訳し、その明快な文章はフランス語の散文の手本の一つとも言われる。

同じ年、カルヴァンはストラスブールへ向かう途中、一晩だけのつもりでジュネーヴに泊まった。ジュネーヴは、司教とその後ろ盾のサヴォワ公の支配を脱したばかりで、町の改革を進めていたのが、激しい気性の説教者ファレルだった。ファレルは宿にカルヴァンを訪ね、学問の静けさを求めてこの町を見捨てるなら神の呪いがあるだろう、と迫った。カルヴァンは恐ろしさに震え、留まることを決めたと書いている。

95Thesen
Wikimedia Commons Wittenberg: Melchior Lotter d.J., 1522 · Public domain

だが、厳格な規律を求める二人は、町の有力者たちとぶつかり、1538年に追放された。カルヴァンはストラスブールで、フランスから逃れてきた人々の教会の牧師となり、改革者ブツァーのもとで教会の組み立て方を学んだ。この地で、子連れの未亡人イドレットと結婚している。

1541年、ジュネーヴの政情が変わり、カルヴァンは呼び戻された。気は進まなかったが、彼は戻り、それから死ぬまでこの町を離れなかった。彼はまず、教会の規則を定めた。牧師、教師、長老、執事という四つの役目を置き、牧師と長老からなる長老会が、市民の信仰と暮らしを見守ることにした(カルヴァンのジュネーヴ)。長老会は、礼拝を怠る者、賭け事や踊りに興じる者、口汚く罵る者、贅沢な服を着る者を呼び出して戒め、ときに市の当局に処罰を求めた。カルヴァン自身は牧師の一人であり、市の役職に就いたわけではないが、その影響力は絶大だった。

カルヴァンのジュネーヴに関わる図版:CalvinStatue
カルヴァンのジュネーヴWikimedia Commons Serein · Public domain

この時代を語るとき、必ず挙げられるのがセルヴェトゥスの事件である。スペイン出身の医師で神学者のセルヴェトゥスは、三位一体の教えを否定する本を書き、カトリックの異端審問を逃れていた。1553年、ジュネーヴに現れたところを捕らえられ、裁判の末に火刑に処された。カルヴァンは彼を告発し、死刑に賛成したが、苦しみの少ない斬首を求めて退けられた。当時、異端の処刑はカトリックでもプロテスタントでも当たり前に行われていたが、この事件には同時代からすでに批判の声が上がり、宗教的な寛容をめぐる議論のきっかけになった。

カルヴァンの教えでよく知られているのが、予定説である。誰が救われ、誰が救われないかは、人の行いとは関係なく、神が初めから決めている。人は善い行いによって救いを買うことはできない。だが、救いに選ばれた者は、神の栄光のために、与えられた務めにまじめに励むはずだ、と考えられた。カルヴァンは、ほどほどの利子を取ることも認めた。のちにドイツの社会学者ウェーバーは、救いの確信を求めて禁欲的に働き、富を浪費せず投資にまわす人々の生き方が、近代の資本主義を生む精神になったと論じた(ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理』)。ただし、この考えはカルヴァン本人よりも、その後の世代の信徒たちに当てはまるものだという指摘もある。

ジュネーヴには、フランスやイングランド、スコットランドから、迫害を逃れた人々が次々に集まった。町の人口は膨れ上がった。1559年、カルヴァンは牧師を育てる学院を開き、ここで学んだ者たちが故郷へ戻って教会を作った。スコットランドの改革者ノックスは、ジュネーヴを「使徒の時代以来、最も完全なキリストの学校」と呼んだ。こうしてカルヴァンの教えは、フランスのユグノー、オランダの改革派、スコットランドの長老派、イングランドのピューリタンへと広がり、やがて北アメリカへも渡っていく。フランスでは、カトリックとの対立がやがてサン・バルテルミの虐殺のような惨事を招くことになる。

サン・バルテルミの虐殺に関わる図版:La masacre de San Bartolomé, por François Dubois
サン・バルテルミの虐殺Wikimedia Commons François Dubois 1529-1584 · Public domain

体は弱く、晩年は持病に苦しみながら、寝台の上でも説教を準備し、手紙を口述し続けた。1564年5月27日、ジュネーヴで亡くなった。54歳。遺言により墓に墓石を置かず、名も刻まなかったため、彼がどこに眠っているのか、正確には分かっていない。それからおよそ150年後、同じジュネーヴで、のちに人民主権を説くジャン=ジャック・ルソーが生まれている。

動画(1)

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