フルドリッヒ・ツヴィングリ
概要
農家の子、エラスムスの弟子、傭兵の従軍司祭。チューリヒの大聖堂でマタイ福音書の最初から順に説教を始めて、改革になった。ルターと聖餐で決裂し、「これは私の体である」の「である」をめぐって握手しなかった。カッペルで戦死し、体は四つ裂きにされて焼かれた。
関わったできごと(1)
ツヴィングリのチューリヒ改革AD1523年 · 説教師本文
フルドリッヒ・ツヴィングリは1484年1月1日、スイス東部トッゲンブルク地方の山村ヴィルトハウスに生まれた。マルティン・ルターより7週間ほど遅い誕生である。父は村の長を務める裕福な農民で、羊を飼っていた。司祭だった叔父のもとで学問の手ほどきを受け、バーゼルとベルンのラテン語学校を経て、ウィーン大学、バーゼル大学で学んだ。バーゼルで人文主義に触れ、古典の原典に立ち返る学び方を身につけた。

1506年、22歳でグラールスの教区司祭になり、10年をそこで過ごした。当時、スイスの最大の輸出品は兵士だった。山がちで貧しいスイスの若者たちは、教皇やフランス王に雇われてイタリアの戦場へ出ていった。ツヴィングリも従軍司祭として兵とともにイタリアへ行き、1515年のマリニャーノの戦いでは、スイスの傭兵部隊がフランス軍に大敗して多くの死者を出すのを目の当たりにした。外国の金で若者が売られ、時にはスイス人どうしが敵味方に分かれて殺し合う。この体験が、傭兵制度への終生の批判につながった。
1516年、巡礼地アインジーデルンの修道院付きの司祭に移った。黒い聖母像で知られ、多くの巡礼者が罪の赦しを求めて訪れる地だった。この年、エラスムスがギリシア語の原文つきの新約聖書を出版した。ツヴィングリはエラスムスを深く敬い、パウロの手紙を自分の手でギリシア語のまま書き写し、大部分を暗記したと伝えられる。

1518年の暮れ、彼はチューリヒの大聖堂グロスミュンスターの民衆司祭に選ばれた。選考の際、グラールス時代に女性と関係を持ったという噂が問題になり、彼はそれを認める手紙を書いている。1519年1月1日、35歳の誕生日に、彼は最初の説教壇に立ち、教会が定めた日ごとの聖書箇所ではなく、マタイによる福音書を第1章から順に読み解いていくと宣言した。聖書そのものを、初めから終わりまで人々に語る。これが改革の始まりだった。同じ年、ペストがチューリヒを襲い、彼も感染して死の淵をさまよった。
1522年、四旬節の断食期間中に、彼の支持者たちが印刷所で集まってソーセージを食べ、騒ぎになった。ツヴィングリは、断食を命じる規定は聖書に無いと説教で擁護した。翌1523年、チューリヒの市参事会は公開の討論会を開き、彼が掲げた67の命題を認めた。市は以後、聖書に根拠の無いものを次々に改めていった。教会から聖像が取り除かれ、オルガンが止められ、1525年にはミサが廃されて、簡素な聖餐式に代わった(ツヴィングリのチューリヒ改革)。ルターの改革が領邦君主の保護のもとで進んだのに対し、チューリヒの改革は市の参事会という市民の議会が決めていった点に特徴がある。

改革はすぐに内側から割れた。ツヴィングリの若い弟子たちの中から、聖書に幼児洗礼の根拠は無いとして、自覚した大人だけが洗礼を受けるべきだと主張する人々が現れた(再洗礼派)。ツヴィングリは、幼児洗礼は旧約の割礼と同じく神との契約のしるしだと論じて反対した。市は再洗礼派を弾圧し、1527年には指導者の一人が川に沈められて処刑された。
もう一つの亀裂は、ルターとの間に走った。聖餐で用いるパンとぶどう酒に、キリストの体と血が本当に宿るのか。ルターは、キリストが「これは私の体である」と言った以上、体は実際にそこにあると主張した。ツヴィングリは、この「である」は「意味する」の意であり、聖餐はキリストの死を記念する儀式だと考えた。キリストの体は天に昇っていて、同時に地上の無数のパンの中にあることはできない、と。1529年10月、ヘッセン方伯フィリップは、カトリックの皇帝に対抗するプロテスタントの同盟を作るため、二人をマールブルクの城に招いて話し合わせた。15の論点のうち14で一致したが、聖餐の一点で折り合えなかった。会談の終わりにルターは差し出された手を握らず、あなたたちは私たちとは別の霊を持っている、と言ったと伝えられる。

スイスの中でも、カトリックにとどまる山間部の諸州と、改革を進めた都市の対立が深まった。1531年、チューリヒは食料の封鎖で圧力をかけたが、カトリック諸州は兵を挙げた。10月11日、カッペルの戦いで、準備不足のチューリヒ軍は敗れた。従軍司祭として兵とともに出陣していたツヴィングリも戦死した。47歳。翌日、遺体を見つけた敵方は、異端者として四つ裂きにし、火で焼いた。灰が信奉者に拾われないよう、汚物と混ぜたとも伝わる。
ルターは彼の死を、剣を取った者は剣で滅びるという言葉で受け止めたとされる。ツヴィングリの後を継いだのは、27歳のハインリヒ・ブリンガーだった。ブリンガーは40年以上にわたってチューリヒの教会を率い、ジャン・カルヴァンのジュネーヴの改革と手を結んだ。二つの流れは合わさって「改革派」と呼ばれる教会になり、オランダ、スコットランド、イングランドの清教徒、そして北米へと広がっていった。1885年、チューリヒのヴァッサー教会の脇に建てられた彼の像は、片手に聖書を、もう片方の手に剣を持っている。