できごと

ボン・マルシェ

Le Bon Marché
AD1852年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ペルシアポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスNejdモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1852年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1852年の版図を描いています(24勢力)。

概要

アリスティド・ブシコーが、小さな織物店を、あらゆる品を並べる大きな店に変えていった。値札を付け、正価で売り、返品を認め、そして誰でも自由に入って、買わずに出てよいことにした。それまでの店は、入れば買わされる場所である。季節ごとの大売出し、通信販売の目録、そして店内の読書室と休憩室。1869年からの新築にはエッフェルの事務所が関わった。ゾラが取材して『ボヌール・デ・ダム百貨店』を書いている。買い物が、外出の目的になった。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

アリスティド・ブシコーAD1810年7月14日–AD1877年12月26日 · 作った

本文

19世紀半ばまで、パリの店は小さく、扱う品も一種類だった。織物屋、帽子屋、手袋屋というように、品ごとに店が分かれている。店に入ると店主が出てきて、棚から品を出して広げ、値の交渉が始まる。値札は無く、値は客を見て決まる。見るだけで出ていくことは許されない雰囲気があり、買った品を返すこともできなかった。店に入るのは、買うと決めてからのことだった。

この習慣を変えた一人がアリスティド・ブシコーである。1810年、ノルマンディーに近いベレームの帽子屋に生まれ、若くして行商に出たのち、パリの「プティ・サン・トマ」という織物店で売り子として働いた。大きな店の売り場で、客がどうすれば品を手に取り、どうすれば財布を開くのかを学んだ。

俯瞰(1892年)
俯瞰(1892年)Wikimedia Commons Public domain

1852年、ブシコーは「ボン・マルシェ」という小さな織物店に共同経営者として加わった。店の名は「良い市場」とも「お買い得」とも訳せる。当時の従業員は12人、売り場は四つ、年の売上は45万フランほどだったとされる。彼はやがて共同経営者の持ち分を買い取り、妻マルグリットとともに店を育てていく。

彼がまず取り入れたのは正価販売である。品に値札を付け、交渉をしない。誰が買っても同じ値で売る。日本では17世紀に江戸の越後屋が「現金掛け値なし」(現金掛け値なし)を掲げていたが、パリの小売りではまだ珍しかった。値を交渉しないぶん、利幅を薄くして回転を上げた。少しずつ儲けて、たくさん売るのである。

別館と本館(1900年)
別館と本館(1900年)Wikimedia Commons Paul-François Berthaud · Public domain

さらに、気に入らなければ返品してよいことにした。そして、誰でも自由に店に入り、見て回り、何も買わずに出てよいことにした。これがいちばん大きな変化だった。買い物は義務から楽しみに変わり、店は品を眺めて歩く場所になった。

扱う品もどんどん広げた。織物から始まり、既製服、下着、帽子、靴、そして家具、玩具、文房具へ。一つの屋根の下に売り場を並べる「百貨」の店である。季節ごとの大売出しも仕掛けた。1873年に始めたとされる白物、つまりシーツや布巾などリネン類の大売出しは評判を呼び、フランスではいまも1月に「白の月」の売出しが続いている。1860年代の末からは通信販売の目録を作り、鉄道で地方の客へ品を届けた。

店内の風景(1898年)
店内の風景(1898年)Wikimedia Commons Félix Vallotton · Public domain

ブシコーは店を、出かけていく目的地にもした。店内に読書室や休憩室を設け、飲み物をふるまい、演奏会や展示も開いた。一日そこで過ごせる場所である。とりわけ中産階級の女性にとって、この意味は大きかった。当時、女性が一人で出かけて時間を過ごせる公共の場所は限られていた。教会と、こうした大きな店がその数少ない例であり、店には女性のための化粧室もあった。

店は建物も変えた。1869年に新しい店舗の建設が始まり、設計には建築家ルイ=シャルル・ボワローと、のちにエッフェル塔を建てるギュスターヴ・エッフェルの事務所が関わった。鉄の骨組みにガラスの天窓を載せ、中央に大きな吹き抜けを設けて、上の階まで光が届くようにした。それまでの店は狭く暗かった。明るい吹き抜けと鉄の階段は、品物と客を見せる舞台になった。工事はパリ・コミューンの混乱をはさみながら進み、1887年に全体が完成する。その頃には年の売上が1億フランを超え、従業員は数千人に達していたとされる。

パリ・コミューンに関わる図版:Barricade18March1871 (cropped)
パリ・コミューンWikimedia Commons Public domain

従業員の扱いには、この店の両面が表れていた。ブシコー夫妻は1876年から従業員に利益を分ける制度を設け、共済や年金の基金を作り、食堂を置き、語学や音楽の講座も開いた。当時としては進んだ制度である。一方で、働く時間は1日12時間を超え、給料は売上に応じた歩合で、売れない者は辞めさせられた。売り子の多くは店に住み込み、独身であることが事実上求められていた。手厚さと厳しさは、どちらも店を回すための仕組みだった。

1877年にブシコーが亡くなったあとは、妻マルグリットが経営を継いだ。彼女は1887年に亡くなるとき、遺産の多くを従業員や慈善事業に遺したことで知られる。

アリスティド・ブシコー(1810〜1877年)
アリスティド・ブシコー(1810〜1877年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

この店の内側を詳しく描いたのがエミール・ゾラである。1883年の小説『ボヌール・デ・ダム百貨店』は、ボン・マルシェやルーヴル百貨店を取材して書かれた。ゾラは売り場を歩き、帳簿を見せてもらい、従業員に話を聞いた。その取材の記録はいまも残っている。小説では、巨大な店が周りの小さな商店を次々に潰していく。ゾラはそれを、新しい時代の力として、否定しないで描いた。同時に、潰されていく商店主たちの悲惨も、容赦なく書き込んでいる。

大きな店は、パリの中でも外でも次々に生まれた。パリではルーヴル(1855年)、プランタン(1865年)、サマリテーヌ(1870年)、ギャラリー・ラファイエット(1890年代)が続き、ロンドンにはホワイトリーズやハロッズ、1909年にはセルフリッジズができた。アメリカではフィラデルフィアのワナメイカーやニューヨークのメイシーズ、シカゴのマーシャル・フィールドが育ち、アメリカの農村ではシアーズの目録が通信販売で同じ役目を果たした。日本では1904年の末に三越が「デパートメントストア宣言」を出している。

「オ・ボン・マルシェ」の全景を描いた版画
「オ・ボン・マルシェ」の全景を描いた版画Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · CC0

それから百年あまりがたち、多くの百貨店は郊外の大型店や通信販売に押されて苦しんでいる。パリのサマリテーヌも2005年にいったん閉じ、2021年に姿を変えて開き直した。ボン・マルシェはいまも同じ場所で営業を続けており、高級ブランドの企業グループの傘下にある。

値札を付け、自由に入れて、買わずに出てよい。いまではあたりまえのこのやり方が、買い物を用事から楽しみへ、店を商う場所から出かける場所へと変えた。オスマンのパリ改造で広い大通りが通り、鉄道が地方と首都を結んだ第二帝政のパリで、ボン・マルシェは、人が買い物をするために家を出る時代を開いたのである。

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