潜水艇タートルの襲撃
概要
アメリカ独立戦争中、ブッシュネルの一人乗り木製潜水艇タートルが、ニューヨーク港のイギリス旗艦に爆薬を仕掛けようとして失敗した。
場所
40.71°N -74.01°E · アメリカ合衆国
関わった人(1)
ジョージ・ワシントンAD1732年2月22日–AD1799年12月14日 · 資金と人員を出して実戦に送り出した本文
タートルは、アメリカ独立戦争のさなかに作られた一人乗りの潜水艇である。戦いで敵の船を狙った潜水艇として記録が残る、世界で最初のものとされる。名前は、考えた人が「亀の上の甲羅を二つ合わせたような形」と述べたことに由来する。
考えたのは、コネティカットのイェール大学の学生だったデヴィッド・ブッシュネルである。ブッシュネルは在学中から水中での爆発を研究し、1775年の初めまでに、時計仕掛けで小銃の発火装置を働かせて水中の火薬に火をつける方法を作り上げた。この年の4月にレキシントン・コンコードの戦いで戦いが始まると、ブッシュネルはコネティカット川の河口に近いオールド・セイブルックで、敵の船の底に爆薬を取りつける小さな潜水艇の建造に取りかかった。

船体はオーク材を樽のように組み、鉄の輪で締め、タールを塗ったものだった。原仕様では長さ約3メートル、高さ約1.8メートル、幅は1メートルに満たない。底の水槽に水を入れて沈み、手押しのポンプで水を出して浮く。前後と上下に進むために、手回しと足踏みのスクリューを備えていた。水の中を進む乗り物にスクリューを使った例として、知られている限りで最も古い。中の空気はおよそ30分しかもたなかった。暗い水中で計器を読むために、針には光る朽ち木(狐火)がつけてあった。真鍮の部品の多くは、ニューヘイヴンの職人アイザック・ドゥーリトルが作ったとみられている。
ブッシュネルはベンジャミン・フランクリンにも手紙を送り、助言を求めた。コネティカット知事のトランブルはこの発明を総司令官のジョージ・ワシントンに推した。ワシントンは大陸軍の乏しい予算を割くことに懐疑的だったが、最終的には資金と人員を出した。
1776年の夏、操縦を担うはずだったブッシュネルの兄が病に倒れ、志願兵の中からエズラ・リー軍曹が選ばれた。この年の7月にはアメリカ独立宣言が出されていたが、8月27日のロングアイランドの戦いでイギリス軍が勝ち、ニューヨーク港を押さえた。タートルの目標は、港を封鎖する艦隊を率いるハウ提督の旗艦イーグル号に決まった。

9月7日の午後11時、リーはタートルに乗り込み、イーグル号へ向かった。手と足で推進器を回し続け、強い潮の流れと暗闇に阻まれながら、たどり着くまでに2時間かかった。リーは船底の下に回り、ねじで爆薬を船体に取りつけようとしたが、何度試してもねじが刺さらなかった。場所を変えて再び試みたが、船の下にとどまることができなかった。夜明けが迫り、リーはあきらめて引き返した。
帰る途中、ガバナーズ島のイギリス兵がタートルに気づき、ボートで近づいてきた。リーは爆薬を切り離して流した。兵たちは漂う爆薬を怪しんで引き返し、爆薬はイースト川へ流れて、激しい水柱を上げて爆発したとリーは報告している。船底に刺さらなかった理由として、イギリス艦の底に張られた銅板のせいだという話が広まったが、銅板は薄く、ねじを止めるほどのものではなかった。ブッシュネル自身は、舵の金具の鉄板に当たったのだろうと考えた。
この襲撃を伝えるのはアメリカ側の記録だけで、イギリス側にはその夜の潜水艇も爆発も記録されていない。そのため、イギリスの海軍史家の中には、話そのものが士気を高めるための作り話だったのではないかと疑う人もいる。
リーは10月5日にも別の艦を狙ったが、見張りに見つかって断念した。10月9日、タートルを載せた母船がハドソン川でイギリスのフリゲート艦に砲撃されて沈んだ。ブッシュネルは艇を引き揚げたと述べているが、その後の行方は分かっていない。ワシントンは後年、この試みを「天才の努力」と呼びつつ、成功にはあまりに多くのことがそろう必要があったと書いている。
ブッシュネルはその後も水に浮かべる機雷の研究を続け、戦後はジョージアに移って別の名で教師や医師として暮らし、1824年に世に知られないまま死んだ。タートルの複製はいまアメリカやイギリスの博物館に置かれている。人の手と足で動く木の樽から始まった潜水艇は、のちに無制限潜水艦作戦で海の戦いを変え、さらに原子力潜水艦ノーチラスの原子力潜水艦へと行き着く。