沖の岩に立つ灯台
概要
イングランド南西のプリマス沖二十キロほどに、満潮になると隠れる岩礁があり、多くの船が砕けた。1698年、ウィンスタンリーが岩の上に木の塔を建てて火を灯したが、五年後の大嵐で塔ごと彼も海に消えた。次の塔は火事で焼けた。技師ジョン・スミートンは、樫の木の幹の形にならって裾の広い石の塔を設計し、花崗岩を蟻継ぎで噛み合わせ、水の中でも固まる石灰を工夫した。1759年に灯った塔は、百二十年以上、波に耐えた。のちに岩のほうが削れて危うくなり、塔の上半分は陸に移されて、いまもプリマスの丘に立っている。
場所
50.18°N -4.27°E · イギリス・イングランド沖
本文
イングランド南西の軍港プリマスから南西へ二十キロあまりの沖に、エディストン岩礁がある。満潮になるとほとんど海に隠れ、干潮のときだけ黒い岩の頭がのぞく。大西洋から英仏海峡へ入る船の通り道にあり、岩を避けて大回りすると別の浅瀬に乗り上げる。プリマスは海軍と商船の港であり、この岩で砕けた船の数は数えきれなかった。
最初にここへ灯りを立てたのは、ヘンリー・ウィンスタンリーという人である。ロンドンで仕掛けを凝らした水の見世物を開いて名を知られた男で、持ち船を二隻この岩で失ったのがきっかけだと伝えられる。工事は1696年に始まり、1698年11月、岩の上の木の塔に火が灯った。陸の見えない沖の岩に灯台を立てたのは、これが初めてとされる。工事中にフランスの私掠船に連れ去られたが、ルイ14世が「フランスはイングランドと戦っているのであって、人類と戦っているのではない」と言って帰した、という話も残っている。

塔は八角形で、回廊や飾りの多いものだった。1703年11月、イングランドを記録に残る大嵐が襲った。ウィンスタンリーはちょうど塔の修理に来ていた。翌朝、岩の上には数本の鉄の棒しか残っておらず、彼も働いていた者たちも戻らなかった。灯りが消えて間もなく、一隻の船がこの岩で沈んだという。
二つめの塔は、絹商人のジョン・ラドヤードが1709年に建てた。円錐形の木の塔の中に石を積んで重りにしたもので、五十年近く持った。1755年12月、灯りの蝋燭の火が天井の木に移り、塔は燃え落ちた。九十歳を超えた灯台守ヘンリー・ホールが上を見上げて水をかけていたとき、溶けた鉛が口に落ちた。彼は数日後に死に、解剖すると胃から鉛の塊が出たと伝えられる。

三つめを任されたのが、ジョン・スミートン(1724〜1792年)である。リーズ近くに生まれ、法律家の父の跡を継がずに科学の器具を作る職人となり、王立協会の会員になっていた。彼は木ではなく石で建てると決めた。形は樫の木の幹にならう。根元が太く、上へ行くほど細くなる木は、嵐でも倒れない。塔の裾を大きく広げ、重さを低いところに集めた。
石の組み方にも工夫があった。花崗岩とポートランド石を一つずつ切り出し、隣の石とはまり込む蟻継ぎの形に削った。一段ごとに石が互いに噛み合い、さらに上下の段も大理石の栓でつなぐ。波が一つの石を引き抜こうとしても、周りの石が放さない。岩そのものにも段を刻み、最下段の石を岩に食い込ませた。

もう一つの難題は継ぎ目だった。ふつうの石灰は水の中では固まらない。スミートンは各地の石灰石を焼いて試し、粘土を含む石灰石から作った石灰が水の中でも固まることを確かめた。これにイタリア産の火山灰を混ぜて使った。この試みは、のちのポルトランドセメントへつながる研究の出発点とされる。
工事は1756年に始まった。作業ができるのは潮が引いて波の静かなときだけで、職人は近くに泊めた船で待った。1759年10月16日、高さ二十メートルあまりの塔の上で、二十四本の蝋燭が灯った。

塔は百二十年あまり、波に耐えた。壊れたのは塔ではなく、岩のほうだった。土台の岩が波に削られ、大波のたびに塔が揺れるようになった。1882年、ジェームズ・ダグラスの設計で隣の岩に四つめの塔が建った。スミートンの塔は上半分を崩して陸へ運ばれ、いまもプリマスの丘の上に立っている。土台の部分は、切り株のように岩の上に残っている。
スミートンはこの仕事のあと、運河や橋や港を手がけ、自らを軍の技術者と区別して「シビル・エンジニア」と名乗った最初の人とされる。灯台は、建てるより続けるほうが難しい。毎晩灯し、そのために人が岩の上に住み、嵐の夜こそ消せない。ファロスの灯台は港の入り口に立ったが、エディストンの塔は何もない沖の、危ない場所そのものに明かりを置いた。六十年あまりのち、フレネル・レンズがその明かりをはるか遠くまで届かせるようになる。