できごと

中国の改革開放

Reform and opening up
AD1978年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1978年の版図を描いています(18勢力)。

概要

市場を部分的に導入した。以後40年で数億人が貧困を脱し、世界の製造の中心が移る。

場所

北京
39.90°N 116.41°E · 中国

関わった人(1)

鄧小平AD1904年8月22日–AD1997年2月19日 · 主導

本文

1976年、毛沢東が死に、10年続いた文化大革命が終わった。残されたのは、疲れ切った経済と、壊された学校と、互いを告発し合った記憶だった。大躍進の失敗では、数千万人が飢えで死んだと推計されている。豊かになるはずの社会主義の国で、農村の多くの人々は食べるのにも困っていた。

毛沢東の後継者となった華国鋒は、毛主席の決定と指示はすべて守る、という方針を掲げた。これに対して、文化大革命で失脚していた鄧小平は、正しいかどうかは実践で確かめるべきだと主張した。1978年5月に新聞に載った「実践は真理を検証する唯一の基準である」という論文を軸に論争が広がり、その年の12月、共産党の会議(第11期3中全会)で、党の仕事の中心を階級闘争から経済建設へ移すことが決まった。これが改革開放の出発点とされる。

1992年の新疆カシュガルの市場。「改革開放の堅持」の標語が見える
1992年の新疆カシュガルの市場。「改革開放の堅持」の標語が見えるWikimedia Commons fdecomite · CC BY 2.0

改革を始める直前の1978年10月、鄧小平は日本を訪れ、新幹線に乗り、自動車や電機の工場を見て回った。同じ年には東南アジアやアメリカにも足を運んでいる。外の世界がどれほど先へ進んでいるかを、指導者自身が自分の目で確かめた旅だった。

最初に動いたのは農村だった。1978年の末、安徽省の貧しい村、小崗村の18戸の農家が、集団の畑を家ごとに分けて請け負う取り決めを、ひそかに結んだ。見つかれば罰せられることを覚悟し、そうなったら残された子どもを村で育てると書き添えた、と伝えられる。翌年、村の収穫は大きく増えた。

世界各国のジニ係数(所得分配の不平等度、2009年CIA報告)
世界各国のジニ係数(所得分配の不平等度、2009年CIA報告)Wikimedia Commons Hysohan · Public domain

政府はこうした動きを追認し、やがて全国に広げた。一定の量を国に納めれば、残りは自分のものとして売ってよい。人民公社は1980年代の前半に実質的に解体された。生産が跳ね上がり、何十年も続いた食糧の不足が数年で和らいだ。農村では郷鎮企業と呼ばれる小さな工場が次々に生まれ、余った働き手を吸い込んでいった。

都市と外国との関係は、全国一斉には開かなかった。1980年、香港に近い深圳など南部の4か所に経済特区を置き、そこだけで外国の資本と市場の仕組みを試した。漁村と小さな町だった深圳は、40年あまりで人口1000万人を超える大都市になる。うまくいけば広げる。1984年には沿海の14都市が開放された。「石を探りながら川を渡る」と言われた進め方である。猫は黒くても白くても、ネズミを捕るのが良い猫だ、という鄧小平の言葉もよく引かれる。

道は平らではなかった。物価が急に上がり、役人の汚職が広がった。1989年、学生たちが北京の天安門広場に集まって政治の改革を求めたとき、軍が投入された(天安門事件)。改革は一時止まりかけたが、1992年、引退していた鄧小平が南部を回って改革を続けよと訴え(鄧小平の南巡講話)、市場経済への道があらためて確かめられた。2001年、中国は世界貿易機関に加盟する。

鄧小平の南巡講話に関わる図版:邓小平像 - panoramio
鄧小平の南巡講話Wikimedia Commons 山胖z · CC BY 3.0

その後の成長は、ほかに例を見ない速さだった。30年あまりにわたって、経済はおおむね年に10パーセント前後で伸び続けた。沿海の工場には内陸の農村から億を数える人々が働きに出て、世界中に服や靴、家電や電子部品を送り出した。中国は「世界の工場」と呼ばれ、世界の製造の中心がここに移った。

その成長を下から支えたのは、農村から出てきた出稼ぎの人々だった。中国には生まれた土地で戸籍が決まる制度があり、都市で働いても、農村の戸籍のままでは都市の住民と同じ教育や医療、年金を受けにくい。安い賃金で長く働く彼らが、輸出品の値段の安さを生んだ。子どもを農村の祖父母に預けて働きに出る親は多く、残された子どもたちの問題も生まれた。1990年代の後半には、赤字を抱えた国有企業の整理が進み、都市でも数千万人の労働者が職を失ったとされる。改革は、勝った人と取り残された人を同時に生んだ。

2006年の中国の輸出先分布
2006年の中国の輸出先分布Wikimedia Commons Anwar saadat at English Wikipedia · Public domain

外からの資金と技術も流れ込んだ。最初に工場を移してきたのは、賃金の上がった香港や台湾の企業だった。日本も1979年に円借款を始め、港や鉄道、発電所の建設に資金を貸した。外国の企業は、安い労働力と、いずれ巨大になる市場を見込んで進出した。中国の側は、合弁の形で技術を学び取ることを条件にすることが多かった。

世界銀行の推計では、改革開放から40年あまりで、8億人前後が極度の貧困を脱した。人類史上、これほど短期間にこれほど多くの人の暮らしが変わった例は他にない。その一方で、沿海と内陸、都市と農村の格差が広がり、大気と水の汚染が深刻になった。同じ時期に始まった一人っ子政策は、急速な高齢化という別の課題を残した。

深圳証券取引所(2018年)
深圳証券取引所(2018年)Wikimedia Commons Stang_wm · CC BY 2.0

同時に、政治の自由は開かなかった。経済を開けば、いずれ政治も開くだろうという見方は、外の世界に根強くあった。しかし共産党は、市場を使いながら一党の支配を手放さなかった。1997年の香港返還のあと、香港で約束された自由がどうなったかも、その延長にある。経済だけを開くという選択が続いている。

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