できごと

ウェストファリア条約

Peace of Westphalia
AD1648年
重要度 5
AD1648年

概要

30年戦争を終わらせ、国が互いの内政に干渉しないという原則を置いた。主権国家の体系が始まる。

関わった人(1)

マザランAD1602年7月14日–AD1661年3月9日 · フランス

本文

1648年10月24日、ドイツ北西部のヴェストファーレン地方で、二つの都市が同時に講和を祝った。カトリックの都市ミュンスターでは神聖ローマ皇帝とフランスが、プロテスタントの都市オスナブリュックでは皇帝とスウェーデンが、それぞれ条約に署名した。二つを合わせてウェストファリア条約と呼ぶ。1618年にボヘミアで始まった三十年戦争が、こうして終わった。

戦争は、宗教の争いとして始まった。プロテスタントの多いボヘミアの貴族たちが、カトリックの強化を進めるハプスブルク家の王に反旗を翻したのである。だが戦火がドイツ全土に広がるにつれ、宗派の線は崩れていった。デンマーク、そしてグスタフ2世アドルフのスウェーデンがプロテスタントの側で介入し、やがてカトリックの国フランスまでが、ハプスブルク家の力を削ぐために、プロテスタントの側について参戦した。その道筋をつけたのは、カトリックの枢機卿でもあったフランスの宰相リシュリューだった。

ヘラルト・テル・ボルフ画『ミュンスターでのウェストファーレン条約』(1648年)
ヘラルト・テル・ボルフ画『ミュンスターでのウェストファーレン条約』(1648年)Wikimedia Commons Gerard ter Borch · Public domain

講和の交渉は、戦争がまだ続いている1640年代の前半に始まった。宗派の違う使節が同じ席に着くことを避けるため、会場を二つの都市に分け、両者の間を使者が行き来した。ドイツの諸侯や都市、ヨーロッパ各国から100を超える使節団が集まり、席次や称号をめぐる争いだけで何か月も費やされた。交渉の間にも戦いは続き、戦場での勝ち負けが、そのまま交渉の条件に跳ね返った。リシュリューは1642年に死に、後を継いだマザランがフランスの交渉を指揮した。

条約は、宗教の問題に一つの解決を与えた。1555年のアウクスブルクの和議は、領邦の君主がカトリックかルター派かを選び、領民はそれに従うと定めていた。ウェストファリア条約はこれを確認したうえで、カルヴァン派も認められる宗派に加えた。さらに1624年を基準の年とし、その時点での宗派の帰属を、教会の財産も含めて固定した。君主が宗旨を替えても、領民の信仰を力ずくで変えることはできなくなった。

アウクスブルクの和議に関わる図版:Druck Augsburger Reichsfrieden
アウクスブルクの和議Wikimedia Commons User:Michail · Public domain

領土と権利の取り決めも多かった。フランスはアルザスの一部などを得て、ライン川へ領土を広げた。スウェーデンはバルト海と北海に面したドイツ北部の領土を得て、帝国の議会にも席を持った。スイスの独立は正式に認められた。同じ1648年の1月には、ミュンスターでスペインとオランダの間の条約も結ばれ、80年にわたるオランダの独立戦争が終わった。ドイツの領邦は、皇帝と帝国に敵対しない限り、外国と同盟を結ぶ権利を認められた。

この条約は、しばしば近代の国際秩序の出発点とされる。国の上に立つ皇帝や教皇のような普遍的な権威を退け、それぞれの国が自国の領域で最高の権力を持ち、互いの内政に干渉せず、対等な主権国家として条約で関係を結ぶ。こうした考え方を「ウェストファリア体制」と呼び、国際関係の教科書の多くはここから始まる。ローマ教皇が条約に強く抗議したことも、普遍的な権威が退けられた象徴として語られる。

1646年、平和交渉のためミュンスターに向かうオランダ全権アドリアン・ポー(英語版)の一行
1646年、平和交渉のためミュンスターに向かうオランダ全権アドリアン・ポー(英語版)の一行Wikimedia Commons Monogrammist G.V.H. / Gerard ter Borch · Public domain

だが、近年の研究は、この通説に多くの疑問を投げかけている。条約の文面には、主権や内政不干渉という原則は書かれていない。神聖ローマ帝国はなくならず、その後も150年以上、1806年まで続いた。それどころか、フランスとスウェーデンは条約の保証国として、帝国の内部の取り決めに口を出す権利を得ている。内政不干渉どころか、外国の介入を条約で認めたとも言える。主権国家の体系は、この一つの条約で生まれたのではなく、16世紀から18世紀にかけて少しずつ形づくられたものだ、というのが今の多くの研究者の見方である。

それでも、この講和が大きな転換点だったことは変わらない。宗教の違いを理由にした大規模な戦争は、これ以後のヨーロッパでは下火になっていく。数年にわたって多くの国が一つの会議に集まり、戦争全体の後始末を話し合って決めるという方式も、ここで先例ができた。のちのウィーン会議や、20世紀の講和会議も、この型を受け継いでいる。

ゼバスティアン・ダートラーによるメダル(1648年)、スウェーデン女王クリスティーナの肖像(表面)
ゼバスティアン・ダートラーによるメダル(1648年)、スウェーデン女王クリスティーナの肖像(表面)Wikimedia Commons Sebastian Dadler · Public domain

講和の背後には、30年間の惨禍があった。軍隊は給料と食料を土地からの取り立てでまかない、通り過ぎた土地では略奪と飢え、疫病が広がった。ドイツでは人口が地域によって3分の1、ところによってはそれ以上減ったとされる。皆が戦争を終わらせたがっていたことが、長くて複雑な交渉を最後までつなぎとめた。

講和の一場面は、絵にも残っている。オランダの画家テル・ボルフは、1648年5月にミュンスターの市庁舎で行われたスペインとオランダの条約の批准の場に居合わせ、宣誓のために手を挙げる使節たちを、一人ひとりの顔が分かるほど細かく描いた。市庁舎は第二次世界大戦の空襲で焼けたが、広間の木の内装は前もって運び出されて残り、戦後に再建された建物の中で、いまも「平和の間」として公開されている。

同メダルの裏面。ミネルヴァに扮したクリスティーナがオリーブの枝と知恵の木を持つ
同メダルの裏面。ミネルヴァに扮したクリスティーナがオリーブの枝と知恵の木を持つWikimedia Commons Sebastian Dadler · Public domain

条約で戦いがすべて止んだわけでもない。フランスとスペインの戦争は続き、1659年のピレネー条約まで終わらなかった。この戦争と講和を経て、ヨーロッパの主役はハプスブルク家から、ルイ14世のフランスへと移っていく。分裂したまま残されたドイツが一つの国になるのは、2世紀以上先のことになる。

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